トップ物理I 改訂版>第4部 波動>第3章 光>第1節 光の進み方

第1節 光の進み方

 

 光速測定の歴史

 光の波動モデルと粒子モデル

 屈折の法則とフェルマーの原理

 ファイバースコープ

ファイバースコープ

 蜃気楼 


 

 光速測定の歴史

(1)ガリレイの試み(1607)

 古くから光の速さは無限に大きいものと考えられていた。これは,簡単に決めてかかっていたというよりも,長い間の生活経験からそう信じられていたものといえる。これに疑問をもったのはガリレイ(G.Galilei1564-1642)であった(教科書p.2331)。彼は,光が瞬間的に伝わるものではなかろうということを,空中放電の際,遠く離れた雲の間に伝わる電光の様子から予想していた。そこで,光が伝わるのに時間を要するか否かを決定できそうな方法を考え出し,1607年にその実験を試みた。彼が考えた測定方法は,彼の著書「新科学対話」の中で,三人の科学者たちの対話の形で述べられている。

 夜,灯を持った2人の人ABが,12km離れて向かい合って立つ。初め,ABともに自分の灯を手で隠しておく。次に,ABの方を見ながら,手を灯から素早く離し,Bに光を送る。BAの光を認めると,反射的に手を灯から離し,Aに向けて光を返す。Aは光を送ってから,Bの光を認めるまでの時間を観察する。続いて,AB間の距離を23kmに延長して,同じことをくり返す。光が伝わるのに時間を要するならば,距離を延長した効果が現れるはずである。しかし,この時間を人の知覚でとらえるにはあまりにも短く,ガリレイの試みは失敗に終わった。

(2) レーマーの測定法(1676)

 レーマー(O.C.Römer1644-1710)は,木星に最も近い衛星イオ(公転周期約42.5時間)が地球から観測して木星の後に隠れる現象,すなわち木星の衛星の食を観察した。このとき,食と食との時間的間隔が規則正しく変化することを発見し,これは光が伝わっていく際の遅れに原因するも

のと考えた。

 すなわち,右図のように太陽S,地球E1,木星J1が,一直線上にあったときに,衛星Mが食を起こすものとする。それからn回目の食のときに地球E2,太陽S,木星J2が図のように並んだものとする。この間の所要時間t1は,1つの食から次の食までの時間をTとし,光の速さをcとすると,

       

 

となる。ここで,dは,地球の公転軌道の直径である。

 つまり,cが有限であるため,実際に食が起こったときより,観測した食の時刻は,それぞれだけ遅れているはずであって,観測結果による所要時間t1は実際の所要時間よりの時間だけ違うと推論した。この状態のときから,再びn回食を起こしたとき,地球と木星とが再び最短距離E1J1になったとすると,この状態になるまでの所要時間は,地球と木星との距離はだんだん近づくため,逆に実際の所要時間よりd/cだけ短くなり,所要時間t2は,

       

 

になる。したがって,の関係が得られる。このようになる食の回数nを観測することによって,

       

 

から光の速さが求められる。d2.99×1011mt1t2199s(n113)を代入して,

       c3.01×108m/s

が得られる。

 なお,当時レーマーは,この方法によって実際に光速を測定したというのではなく,光が有限の速度をもって伝わることを実証するために,この方法を用いたというのが真相に近いらしい(A.WroblewskiAm.J.Phys.53)

(3) ブラッドリーの測定法(1727)

 当時,地球の公転に伴う恒星の年周視差の観測が大きな関心を集めていた。1725年,ブラッドリー(J.Bradley1693-1762)は,りゅう座のγ星を観測し,年周視差の観測値である星の位置変動を見いだした。しかし,この変動を年周視差の予測値に帰することができなかった。けれども,1727年に彼は,年周視差の予想値と観測値のずれを光の速度が地球の速度に対して有限な比の値をもつこと用いて説明することに成功した。この測定の結果,光の速度は3.01×108m/sであるとした。この発見は,彼がテムズ河で舟遊びをしていたとき,船の向きを変えると船のマストにある風見が,少しではあるがいつも同じだけその向きを変えることを見て思いついたといわれている。彼の測定以後100年間ぐらいは,光速測定についての報告は見当たらない。

(4) フィゾーの実験(1849)

地上の光源を用いた光速の測定に初めて成功したのは,フランスのフィゾー(A.H.L.Fizeau1819-1896)であった(教科書p.2342)。フィゾーは光の送信受信装置(光源S,レンズLlL2C,半透明の鏡A,歯車B)を,パリの西の郊外シュレンヌにある家の中に置いた。そこから8.6km離れたパリのモンマルトルの丘の上に,光の反射装置(反射平面鏡E,レンズD)を置いた。歯車Bと反射鏡Eの間の距

離は8633mである。光がこの足巨離l1往復する時間2l/cを測定して,光速cを求め,c3.15×108m/sの値を得た。

光源Sを出た光は,レンズLlを通り鏡Aで向きを変えて1Oに像を結ぶ。O点に歯車の歯の隙間がきていると,光はO点から反射鏡Eに向かって出ていくことができる。光はレンズCを通って平行になり,レンズDを通って反射鏡のE点に像を結ぶ。反射した光は,往路と同じ路を逆向きに進んで,再びO点に像を結ぶ。このとき,O点に歯車の歯が未だ到着していなければ,光はO点から半透明の鏡Aに進むことができる。Aを通り抜けた光は,レンズL2を経て観測者の目に入る。

 光がO点から出入りできる時間Dtは,O点に歯車の歯の隙間がきている時間である。歯車の歯数がk枚で,回転数がn1/s〕の場合のDtは,Dt1/2knで表せる。時間Dtの間にO点から出ていく光は,先端から最後尾までの長さがcDtだけある。歯車の回転数nが小さくて,cDtが往復の距離2lを越える場合(cDt2l)を考えよう。図をみるとわかるように,反射して帰ってきた光の先頭部分は,O点が歯車の歯で閉ざされる前に,長さ(cDt2l)の分だけO点を通過している。この部分の光だけが観測者の目に入り,残りの部分はすべて歯車の歯で締め出される。回転数nを大きくすると,cDtが小さくなるので,目に入る光の量は減少する。

cDt2lの場合,目に入る光の量は0になる。この場合の回転数n0を測定すると,光速cの値をc4lkn0で求めることができる。

 歯車の回転数nをさらに大きくすると,光の最後尾がO点に到着する前に歯車の歯は去りO点が開かれるので,光の後ろの部分,(2l cDt)だけの長さの光が観測者の目に入ってくる。

(5)フーコーの実験(1862)

 フィゾーの測定値を,当時の科学者はあまり信用しなかった。その後13年たって,フィゾーの方法を改良し,空気中と水中の光速度をフーコー(J.Foucault1819-1868)が測定した。彼は,歯車のはたらきを回転鏡に改め,光の進む距離をフィゾーの8.6kmから20mに縮め,実験室内で初めて光の速さを測定した(教科書p.234例題1)

 光源Pの光をレンズL¢Sに集める。スリットSを出た光は半透明鏡Nを通り,レンズLによりBSの実像を結ばせる。この光の進路の途中Oに平面鏡M1M2を置くと,この平面鏡で反射された光は,C(BOOCr)に像を結ぶ。このC点に半径rの凹面鏡を置くと,ここで反射された光は再び平面鏡M1M2で反射され,レンズLを通り半透明鏡Nで反射された後,ついたて上のA点に像を結ぶ。ここで,平面鏡M1M2を回転数n/sで回転(角速度2pn)させておく。Oで反射さ

れた光が,Cで反射されてOにくるまでに2 r/c(光速度c)の時間がかかるので,この間に平面鏡M1M2は,Ml¢M2¢の位置,すなわち,回転する。したがって,Ml¢M2¢で反射する光は2qだけ方向が変わる。それで,Lを通りNで反射されて,ついたて上のA¢点に像ができる。ところが,

であるから,

が得られる。フーコーは,r20mn800/sで実験を行い,

 

        c2.986×108m/s

の結果を得た。

 ここで,もう一度,フーコーの実験装置について,AA¢の位置が回転鏡M1M2の位置に関係しないことを強調しておこう。それはM1M2の回転軸が凹面鏡Cの球の中心に置かれているからである。

 鏡M1M2が静止していると,レンズによる光源Sの像は最終的にAにできる。平面鏡が回転していても,M1M2の位置で反射され凹面鏡Cに進んだ光は,OがちょうどCの球の中心であるため必ずCに垂直に入射するので,反射によって,もときた道をそのまま逆行してOに帰る。このことは,平面鏡M1M2がどのような傾きであっても成り立つ。つまり平面鏡の回転軸Oが凹面鏡Cの球の中心と一致している限り,図の2qの値は,平面鏡M1M2の位置に無関係に,鏡の回転角速度とOC間の光の往復時間だけに関係する。したがってAA¢の隔たりも同様となるのである。

(6) その後の測定値について

 光の速度cは,その後も種々の方法を用いて測定された。1926年には,米国のマイケルソン(A.A.Michelson1852-1931)がフーコーやフィゾーの装置を改良し,ウイルソン山とサンアントニオ山の間の35kmの距離を用いてc2.99796×108m/sの値を得た。

 また,1972年に,アメリカ国立標準局のイブンソンはレーザー光を用いて,最も精密な測定値c2.99792458×108m/sの値を得た。

(7) 光速度と長さの単位

 長さの単位の定義について,国際度量衡委員会の諮問機関CCDMは,イブンソンの光速度の測定値に基づき,1982年に次のような提案をした。

 「光が真空中で1/(299 792 458)秒の間に進む距離を1メートルとする。」

これは,光が真空中で1秒間に進む距離を 299 792 458mと定義することと等しく,国際的なとり決めによって光速がc2.99792458×108m/sとなったことを意味している。この提案は,198310月の第17回国際度量衡総会において採択され,従来の86Krを用いたメートルの定義は廃止された。

 

 光の波動モデルと粒子モデル

 光を力学的に解釈しようとした最初の人はおそらくデカルト(R.Descartes1596-1650)であろう。彼によれば,太陽や恒星をつくる第1元素,地球・惑星をつくる第3元素,それらの間を第2元素(エーテル)がすき間なく埋めている。そして光は,太陽を構成する第1元素の回転による遠心力によって生じた圧力が,第2元素を媒介として瞬間的に伝わり,人間の目に作用するときに感じられるものとされる。光は,“2つの場所の間の全空間中に互いに接触してすきまなく存在している多くの物体によって,ひとつの場所から他の場所へと伝えられる運動への作因または傾向”(『哲学原理』第V部,命題551644)である。そして,ニュートン(16431727)もホイヘンス(16291695)も,ともにこのデカルトのエーテル説を相続する。

17世紀の後半には,光の基本的性質―直進,伝搬速度,反射・屈折の法則,色,周期性,回折・干渉,偏光―については,ほとんどすべて知られていた。

 直進性や反射・屈折など光の性質に関する経験から,光は高速の微粒子から構成されているのではないかという考えと,それは波動の一種ではないか,という前者に対立する考えが人々の間に生まれてきた。前者を代表するのがニュートンであり,後者を代表するのがホイヘンスであった。

 粒子モデルとよばれる最初の考えによれば,光源から高速で放射された光粒子は透明な均質の媒質中ではいかなる力も受けない。したがって,慣性の法則によりそれは直進する。異なる媒質の近くに光粒子が達すると,両媒質の境界面の近傍においてのみ作用する反発力または吸引力を受ける。これらの力は境界面に立てた法線の方向に向かう。このような力の作用圏内に光粒子が入射すると軌道が曲げられ,放物線軌道を描くことになる。この力の作用圏は影の鋭さから考えて,境界近傍のごくせまい範囲に限られなければならない。上の図は,この粒子モデルによる屈折の法則の説明である。力は境界面に平行な方向には作用しないから,速度の平行成分は変化しない。したがって,粒子モデルによれば屈折の法則は,

            

 

で与えられることになる。ここにv1は媒質Iにおける光速,v2は媒質IIにおける光速である。

 他方,光を波動ととらえる波動モデルでは,屈折の法則は

            

 

となり(教科書p.235(2)),粒子モデルとちょうどv1v2の関係が逆になる。

 したがって,異なった媒質中での光速を測り,屈折率(測定しやすい)の値と比べれば,2つのモデルの優劣がはっきりする。フーコーは,水中における光の速さが空気中の約3/4で,水の屈折率1.33の逆数に等しいことを発見した(1850)。この実験結果は,光の波動モデルの正しさを証明するものであった。

 フーコーの実験を待つまでもなく,粒子モデルには,それの唯一の基礎になっている反射・屈折の現象に関して,大きな困難があった。それは,同じ光が一部は反射し,一部は屈折するという事実である。上述のように,2つの現象を切り離して考えれば粒子モデルで一応の説明はつくのであるが,切り離さないでおくと容易なことでは説明ができない。様々な無理な仮定,たとえば光は速さの異なる粒子から成り立っているというような奇妙な仮定が必要になってくる。それでも粒子モデルは,ニュートンという権威をもった支持者がいたために,およそ1世紀の間,人々に受け入れられてきた。ひとたび権威が確立されると,それに不都合な部分は向こうへ押しやられ,人々がその権威に盲従する例をここでも見ることができる。

 しかし,ホイへンスに始まる光の波動モデルは,19世紀に入ってフレネル(A.J.Fresnel1788-1827)を通して復活した。ニュートンが粒子モデルのほうをよしとしたのは,ホイへンスの波動モデルでは光の直進性を説明できないように思えたためである。フレネルは,いわゆる半波長帯という考えを用いて,波動モデルで光の直進の現象を説明できることを示し,それと同時に粒子モデルでは説明の難しい回折の現象をも説明できることを示して世間を驚かせたのである(1817)

 フレネルは『光の回折について』の論文(1819)において,次のように述べている。ニュートンによる光の粒子説の仮定は,数学的解析が適用しやすいのではっきりした結論が導けるという長所をもっている。これに対して光の波動説の仮定は,この点で大きな困難を生じる。「しかしいずれか一方の説を採択するに当たっては,仮説の単純性だけを考慮すべきである。計算の単純性は,可能性の比較検討には何の重みももつべきではない。(中略)人々が1つの科学の諸原理を単純化しようとする際に,しばしば道に迷うようなことがあったとすれば,それは彼らが十分な量の事実を収集しないうちに体系を確立してしまったためである。彼らが唱えた仮説は一種類の現象だけを考察しているうちはきわめて単純であるが,彼らが閉じ込められているきゅうくつな領域からの脱出をはかる段になると,他の多くの仮説を必要とするのである。(中略)この点において,光は遍在する流体の振動であるとする説は,粒子放射説よりも大きな利点をもっている。前者は,光がきわめて多様な変容を受けやすいことを理解させてくれる。」

 光の粒子説に比べ,光の波動説は多くの現象の説明に対してきわめてフレキシブルにそれを適応させることができる。そしてただ1つ,エーテルのもつ力学的性質の困難だけが,特殊相対論の発見までの間,残り続けるのである。

 

 屈折の法則とフェルマーの原理

 光は最短距離を進むという原理は,古くヘロン(HeronB.C130-75)が考えたものであった。当時ギリシアにおいては,“自然は無駄をしない”という原理が力を得ていた。これに基づいて,彼は光の進む道は最短距離をとることを述べ,光の直進性を説明している。そして,反射光線の経路の長さは入射角と反射角とが等しいとき極小となることを説明している。このように最小とか最大という問題は,昔から数学を扱う人々にとって興味深いものであった。

 極大・極小の問題を解く一般的な方法を見いだした最初の一人として,フェルマー(Pierre de Fermat1601-1665)があげられる。彼は,当時強い関心をよせられていた光の屈折の現象にこの方法を適用した。光が疎な物質から密な物質に入るとき,密な物質中では光はより一層大きい抵抗を受ける。それを排除しながら進むのでより多くの時間がかかり,光の速度は鈍る。光が2つの媒質を一方から他方へ通過する場合には,光はそれぞれによって受ける抵抗の和をできるだけ小さくし,最も短い時間に1つの点から他の点に到達するようにその経路を選ぶものとした。

 いま,2つの物質の境界面を隔てて2ACがある。光がAからCまで進む最小時間の経路について考える。

 光がAを出て境界面上の点Bで折れ,Cに達するまでに要する時間は,それぞれの物質中での光の速度をv1v2とすると,

    

ここで,ADaECbDBx DElとすると,

    

 

したがって,xについての微分を行いそれが0になるためには,

    

 

フェルマーは,このような数学的取り扱いを1661年に行ったが,すでに1657年にその思想を自分の書簡で述べていた。彼は謙虚な性格の人で,研究結果を公表しなかったが,その手記を子供のサミュエル(Samuel de Fermat1632-1690)が刊行した。これが“Varia Opera”といわれるものである。上の式はデカルトの導いた式と形は一致しているが,速度の関係はまったく逆になっている。その導き方には,デカルトのような苦しい解釈はなく,自然法則を無理なく示している。

 

 ファイバースコープ

 光ファイバーは,光損失の少ない石英ガラスなどで作られていることが多く(プラスチックスもある),コアとよばれる中心付近の屈折率の高い部分と,クラッドとよばれる屈折率の低い部分からなる。ファイバー端面に入射した光は,コアとクラッドの境界面で全反射をくり返しつつ,コアの中を伝わっていく。この光ファイバーをたくさん集めて規則的に配列し,できた束の一端に対物レンズによる像を投影すると,像の画素は個々のファイバー中を通過する光の強弱や色として他端まで送られる。こうして送られてきた像を,拡大観察できるようにした装置をファイバースコープ(fiberscope)という。医療用あるいは工業用に各種のファイバースコープが生産されている。ファイバーの束は,しなやかで容易に曲がるため,たとえば人体内の胃とかパイプ類の内壁といったように,通常では肉眼で見にくい場所を観察したり,あるいは危険で近づけないような場所を観察したりする目的で使用される。ファイバースコープに用いられる対物レンズは焦点距離が3040mm程度に短く,画角は広く100°程度のものが多い。なお,対物レンズの近傍には被観察対象を照明する装置を設けることが必要である。

 ファイバーの束を使って光学像を伝送するというアイデアは1930年以前に出されていたが,1956年になって最初の実用化への試みが米国の内科医ヒルショビッツ(B.T.Hirschowitz)によって行われた。ファイバースコープという名称も彼の提案によるといわれている。しかし,その後のファイバースコープの改良やそれを用いた診断技術の発展という点では,日本が世界をリードしてきたといっても過言ではない。とくにオリンパス光学工業()はファイバースコープが登場する以前から胃カメラの製作で実績があったりした関係で,この方面の貢献度が高い。ちなみに,現在は内視鏡という言葉が,そのままファイバースコープを意味するように思っている人も多いが,直腸鏡や膀胱鏡などのように鏡や光源を組み込んだ金属性の固く可換性のないものも内臓鏡(endoscope)とよばれるので,両者を混同しないように注意してほしい。

 

ファイバースコープ

一般に,光ファイバーは屈折率が高い材料で作られた細線の周りを,低屈折率材料で被覆した構造をもつ。中心部をコア,周辺部をクラッドという。教科書p2375に示された診察用ファイバースコープでは,光がコアとクラッドの境界でつねに全反射しクラッドに漏れないので,コア中を少ない損失で伝わる。このようなファイバーを数多く束ねると,体内の像を一点ずつとり出して再生し,体外で見ることができる。

光ファイバーには,図のようにいろいろなタイプのものがある。ステップ・インデックス型とよばれるものは,図の右側に示すように屈折率が段階的に変化するタイプである。医療用ファイバーはこの一種で,入射角度によって多くの伝搬経路があり,マルチモード・ファイバーとよばれる。

今日,光ファイバーの最も重要な応用は光データ通信である。例えばインターネット通信では大量の情報を光にのせ,地球全体に巡らされた光ファイバーネットワークを通じて高速で世界中に送っている。この場合,情報のデジタル信号で変調された光が通ることになるが,マルチモード・ファイバーでは伝搬経路によって光路差が生じるので,遠くまで伝わる間に変調信号が乱れることになり情報が伝わらない。したがって,図に示すシングルモード・ファイバーを使う。これはコアの直径を10mmくらいに細くしたもので,まったく全反射を起こさず,コア中を伝わる(このような伝搬モードしか存在し得ない理由は幾何光学では説明できない。光の回折と波面整合,さらに反射時の位相シフトなどを考慮する必要がある)。通信用ファイバーは石英ガラス製が一般で,光は1mm程度の赤外線を用いる。これは光吸収が最も少ない組み合わせである。それでも伝搬損失は避けられないので,10kmくらいの間隔で中継器を置き,一度電気信号に変換して増幅し,再び光にのせて送っている。

シングルモード・ファイバーはコアが細いので,光の入出力が容易でない。それに対し,グレーデッド・インデックス型のファイバーは,コアの中心から周辺にかけて屈折率が連続的に下がっている。光は,屈折によって曲線を描きながらコアの中を進む。伝搬経路の違いによる光路差はほとんどないので,情報の乱れも少ない。またシングルモード・ファイバーに比べ,コアを太くすることができるなどの利点をもつ。近距離の情報伝達や,光ファイバーの干渉計,センサー応用などに利用されている。

図  光ファイバーの屈折率分布と伝搬経路

 

 蜃気楼 

光の反射や屈折が原因で起こる自然現象に蜃気楼や逃げ水がある。下の写真の蜃気楼は,富山県魚津市で撮影されたものである。この地方では,早春から初夏にかけて,特に4月下旬から5月中旬にかけてよく出現する。立山連峰から富山湾へ流れる雪解け水の冷水によって,海水面の空気が下が冷たく密,上が暖かく疎になった場合に,風向きにより,暖気と冷気の境界面がレンズ状になり,下図のように光が屈折や反射して起こると考えられている。(写真提供:澤崎寛)

 

 

 

 

 








本サイトに掲載された記事や画像の無断転載を禁じます。
Copyright(C) 2009 SHINKOSHUPPANSHA KEIRINKAN CO.,LTD. All rights reserved.