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2節 歴史に見る化学の探究

 

◆疑問と仮説

A.L.ラボアジエは,燃焼の過程を説明するのにフロギストン説では矛盾する場合がある事に気づき,疑問をもったのだろう。そして,実際に幾つかの物質を空気中で熱してみて,その結果を予断なく考察する中からフロギストン説は誤りで,燃焼とは燃えるものが空気またはその一部と結びつく現象ではないかと予想した。いわば,燃焼について彼なりの仮説を立てたのであった。

あるテーマについての自然探究の動機は,まず疑問をもち,手短かな実験を行う中で仮説を立ててみる事である。

 

◆フロギストン説

可燃性の原質であるフロギストン(燃素phlogiston)によって,燃焼や金属の酸化(灰化)等を説明した理論。シュタールG.E.Stahl(ドイツ,16601734)が可燃性という特定の性質を担う原質をフロギストンと名付けたが,この原質は古くにはP.A.T.Paracelsusの硫黄,更にベッヒャーJ.J.Becher(ドイツ,16351682)の油性の土に由来する。この理論によると,金属の中に含まれるフロギストンが熱により金属から離れる現象が灰化であり,逆に金属灰をフロギストンに富む炭素と熱する時には,フロギストンが炭素から金属灰に移って金属が再生されるとした。この説明は硫黄等の非金属の反応にも適用された。今日の考え方では,フロギストンは負の酸素といってもよい。また,燃焼における空気の役割は,可燃物が燃えて出てくるフロギストンを受け取る事であると考えられた。だから,その中で燃焼が支えられなくなった空気はフロギストンで飽和されたと見なされ,フロギストン空気と呼ばれた。プリーストリJ.Priestley(イギリス,17331804)は酸素を発見した時,その中で物が激しく燃える事を観察して,その空気がフロギストンを含まない為だと理解し,脱フロギストン空気と呼んでいる。この理論は,統一性のなかった多くの化学現象を統括する事を可能にした。約一世紀に亘って用いられたが,ラボアジエA.Lavoisierの酸素による燃焼理論の出現と伴に衰退した。(化学大辞典)

 

参考 フロギストン説とラボアジエの燃焼理論

可燃性物質が燃焼する時,炎と共に何かが逃げていく様に見える。この現象から,燃焼とは物質からフロギストン(燃素)が失われる事であるというフロギストン説が生まれた。この説は,初めベッヒャーが唱え,シュタールによって発展した。シュタールはフロギストンという名称を与えたばかりでなく,フロギストンを用いた燃焼の理論体系を考え出した。即ち可燃性物質はフロギストンを多く含む物質であり,燃焼とはそれらの物質がフロギストンを失う現象であり,金属が錆びるのも燃焼と同じ現象で金属がフロギストンを失う現象と考えた。また金属酸化物が木炭等によって還元されるのは,金属酸化物が木炭等のフロギストンを多く含む物質からフロギストンを受け取るからであると考えた。

 

金属  − フロギストン ― 金属酸化物

金属酸化物  + フロギストン(木炭等から) ― 金属

 

ラボアジエは,リン・硫黄の燃焼,スズの加焼実験等から,これらの変化に際して空気のかなりの部分が固定されて,その結果重量が増えると考えた。この固定される空気の部分がK.W.シェーレ(スウェーデン,17421786)J.プリーストリによってそれぞれほぼ同時に発見された気体(酸素,プリーストリによれば脱フロギストン空気)である。この事を含めた燃焼理論を確立したラボアジエは,「フロギストンに関する省察」(1783)や「化学原論」(1789)によって,酸素による燃焼理論がいかに合理的であるか,それに反してフロギストン説による燃焼の説明がいかに複雑で,自己矛盾に満ちているかを指摘し,フロギストン説を訂正した。

 

気体の発見

発 見 者

気  体

発見者の命名

1755

J.Black(イギリス)

二酸化炭素

固定空気

1766

H.Cavendish(イギリス)

水素

可燃性空気

177172

K.W.Scheele(スウェーデン)

酸素

火の空気

1772

D.Rutherford(イギリス)

窒素

フロギストン化空気

J.Preistley(イギリス)

塩化水素

酸の空気

1774

K.W.Scheele(スウェーデン)

塩素

脱フロギストン塩酸

1775

J.Priestley(イギリス)

酸素

〃   空気

 

◆実験・測定

仮説が設定され,テーマが決まれば,具体的に詳細な定量実験を進める事になる。ラボアジエは,スズ,鉛,水銀等の金属や硫黄を始めとする非金属,更には有機物について,空気中で熱する時の変化を観察した。色や状態の変化等の定性的変化は勿論だが,特に質量の変化に着目して定量的変化を詳細に測定した事が重大な発見の糸口になっている。

実験を進めるに当たって,当然,試料や器具の用意,安全の確認等,慎重に計画を立てただろう。質量の測定には天秤が必要だが,ラボアジエの成功の陰には要求する精度に耐える天秤が準備できた事が挙げられよう。結果から言えば,彼の実験を支える器具・用具・材料の製作者が周辺にいた事が想像できる。

器具・用具によっては専門家による製作が間に合わない事もあろうし,実験者が望む機能や精度に達しない場合もあるだろう。時には,探究者自身が器具・用具の開発を進めなければならない事もあると思われる。

 

◆現在の器具を用いてのラボアジエの実験の追試

ラボアジエが行った数多くの実験のうち,熱によって元の物質の質量が増えた例をとり上げて追試したものが,教科書にある。スズの加熱によってその表面が黒色に変化したとBに述べてあるので,この時Snの一部がSnO2変に変化したものと考えられる。この実験では容器に入れたスズが全て酸化するわけではないので,スズと酸素の化合比は求められないが,容器内の酸素がほぼ全て用いられ,その質量が定量的に測定されており,質量保存則が導かれた過程がわかる。

操作

(容器+空気)

容器内のSnまたは

質量の合計〔g

番号

の質量〔g*

SnO2の質量〔g

 

@

10.0463

15.2960

25.3423

A

10.0276

15.2960

25.3236

 

(@0.0187)

 

(@0.0187)

B

Snの表面が黒くなり,Snの一部が酸化さ

25.3245≒A

 

れる。

 

C

10.0463

15.3061≒D

25.3524≒D

 

(A0.0101

(@0.0101)

(@0.0101)

 

0.01010.0187)

 

 

D

10.0463

15.3064≒C

25.3527≒C

*各操作で,容器には空気による浮力が加わっている。本来はこれを差し引いた値が正しい質量になるが,この実験では相対的な質量変化をみるのが目的であり,浮力を無視した数値を並べてある。尚,この実験での浮力は0.0509gwである。

 

◆結果の考察

この実験の結果を考察すると,次の事項を読みとる事ができる。

(1) 容器の加熱前後では,スズの表面の色の変化から,明らかにスズの一部は別の物質に変わっている。しかし,操作AとBの質量の合計値は,僅かの誤差を含むがほぼ一定で,容器全体の質量変化はなかったといえる。即ち,容器全体の質量は保存されている。

(2) スズは加熱後には加熱前に比べ0.0104gだけ質量が増えた。一方,加熱後に冷やしてからコックaを開けると,空気が音をたてて入り,容器全体の質量が加熱前に比べ0.0101g増えた。この事は,容器内の空気の一部(酸素)0.01010.0104 g程スズの表面に固定された事を示す。即ち,加熱という操作によりスズが空気の一部と結合したと考えられる。燃焼において,フロギストンが放出されるというフロギストン説は誤りである事が実証された。

(3) 操作Bにおいては,それ以上変化しなくなるまで熱しているので,スズが過剰にある事を考えれば,スズと結びつく空気の一部(酸素)は殆ど用いられた事になる。初めに容器内に入っていた空気が0.0509gであれば,スズと結びっいた空気の一部(酸素)0.01010.0104gだったから,質量で23%,体積で21%という事になる。

ラボアジエは,以上の様な実験・測定・考察を数多くの物質について行い,燃焼理論を確立した。

 

◆ラボアジエ

17431794年。フランスの化学者。パリの生まれ。法律家を志したが,自然科学に興味をもち,地質学者と協力し地質図・鉱山図を作成,都市の照明についての論文,セッコウについての実験論文等を書き,176825歳でパリの科学アカデミー副会員となった。1776年以来,硝石火薬工場監督官を勤め,また1790年には度量衡委員会の委員となった。硝石火薬工場の中に自宅があり,自宅内に化学実験室をつくり,多くの化学研究を行った。また,1780年以来徴税請負人の職にもあったが,この為フランス革命に際して公訴され処刑された。Lavoisierの仕事で最も重要なものは,これまでのフロギストン説を否定して,酸化をその物質が酸素を取り込む事として正しく説明し,その化学反応に与る物質の重量関係を確定し,質量保存の法則を明らかにした事である。酸素を初めてつくったのはLavoisierではなく,C.W.ScheeleJ.Priestleyが独立になした事だった。そのPriestley1774年,パリに来て自分の実験をLavoisierに語ったのである。

また,Lavoisier1783年,C.Blagdenによって,水の組成についてのH.Cavendishの実験について知らされた。これらの発見に基づいてLavoisierは燃焼,金属の灰化,呼吸を1つの原理によって説明する反フロギストン理論をつくり上げたのである。また,彼は有機物の元素分析法を始め,近代有機化学の基礎を据えるのに貢献した。1789年に出版した化学原論には,質量保存の法則が述べられ,また現在の技術で分解されうる窮極のものという定義の下で33個の元素(単体)が挙げられている。但し,その中には光と熱素も挙げられている。(化学大辞典)

 

◆没後200年,斬首された「現代化学の創始者」ラボアジエに再び光を

原光雄(元大阪市立大学教授)(199456日付朝日新聞夕刊記事より)

18世紀後半期の化学は,四元素説(空気・水・火・土)や燃素説(燃素という元素があると主張する説)に支配されていたが,1775年に英人プリーストリが酸素を発見したのを受けて,ラボアジエはこの酸素こそ元素に違いないと洞察した。これを起点として,水素,窒素,炭素,金,銀,銅,鉄と元素を決めてゆき,33個の元素を列記した表を提示して,新しい元素説を確立した。

ドルトンは,この元素説にニュートンの原子概念を結び付けて原子分子説を確立。現代化学は,この様な元素説と原子分子説を土台として築き上げられたので,ラボアジエとドルトンは現代化学の創始者と呼ばれる。

しかし,2人の人生は対照的だった。イギリス・マンチェスターで化学の研究に専念しつつ平穏な一生を過ごしたドルトンに対して,ラボアジエは波乱の生涯を送った。フランス革命の末期,ロベスピエールの恐怖政治の真っ最中に,パリの中心コンコルド広場に据え付けられたギロチンで斬首されたのである。

時は179458日午後615分頃。享年508カ月。28人の斬首は24分間で終わり,遺体から噴き出す血潮で辺り一面は血の海となった。大勢の見物人が一部始終を見ていたが,こういう光景は毎日の事なので,特に非難の声を発する者もなかった。その時処刑された28の遺体は馬車に積み重ねられて,共同墓地の大穴に放り込まれた。だから,ラボアジエの死には葬儀もなかったし,墓碑もない。

ラボアジエが革命裁判所で死刑の判決を下されたのは,彼が徴税請負人だったからである。徴税請負というのは,国税の若干(塩税,酒税,商品関税その他)の徴収を,60人の金持ちが出資して請け負うという制度で,2万人の部下を督励して厳しく取り立てたので,出資額に対して610%の儲けがあったという。国民の血税の中から儲けを取る事になるので,人々は徴税請負人に対しては反感を抱いていた。請負人は単なる株主ではなく,同時に役員や幹部として多忙だった。ラボアジエは25歳の時,株を購入して請負人となったが,その後32歳の時に火薬管理官という国家官吏にも就任したので,化学者としての仕事と合わせて,3人分の仕事を1人で兼務する事になった。

昼間の活動時間の大部分を他の職務に取られてしまい,全日を化学に充てる事ができたのは,週に1日だけだった。そこで彼は毎日,朝6時から9時迄と晩7時から10時迄の計6時間を,化学に割り当てる事にした。

毎日,朝6時から晩10時までの全時間が就業時間だという猛烈な時間表である。こんな時間割りを作り得たのは,住居に隣接して実験室を持っていたからである。彼は火薬管理官に就任してから,住居を造兵廠の構内へ移し,私費を投じて,最高級と評された実験室を造り,高価な実験装置を特注していた。実験助手達への給与も私費から支払っていた。

通例では化学者にとって化学は生業である。大学の研究室等で化学に精励する事で生計費を得ているのである。だが,ラボアジエにとっては化学は生業ではなくて聖業であった。精力的に働くラボアジエという人物の中には,世間の悪評にも怯む事なく金儲けに専心する徴税請負人と,大金を投入して無報酬で自然の真理探究に打ち込んだ化学者とが,仲良く同居していたのである。

彼の死から100年以上たった1900年に,コンコルド広場から至近距離にあるマドレーヌ教会堂の裏手に,ラボアジエ銅像が建てられた。台石の銘板には「現代化学の創始者」と書かれていた。だがこの銅像も,第2次世界大戦中にパリを占領支配していたドイツ軍が,兵器製造の為に鋳潰してしまった。本人はギロチンで処刑されて50歳で生涯を閉じたが,その銅像もまた敵軍によって鋳潰しの刑に処されて44歳の生涯を閉じたわけである。前者では徴税請負人が処刑されたのだが,後者では大化学者が処刑されたのである。

私はラボアジエの化学での偉業と凄惨な死に様とに,若い時から関心を抱き,最初の著書は『大化学者()ラボアジエ』(1941)だった。その後,『ラボアジエ』(1950)も出版した。日本人が書いたラボアジエ伝は目下の所,私の著書だけの様だが,両書とも絶版となって久しい。

ドルトンについては,マンチェスター市内に大理石像と銅像が100年以上前からあって,今も市民に親しまれている。それに比べ,ラボアジエはいかにも不遇である。

没後200年の記念日である58日を前にして,私は何とかしてパリのマドレーヌ教会堂の裏に,ラボアジエ銅像を再建したいと考えている。その為には,なけなしの貯金を投げ出してしまおうかと思案中である。

著者招介;原光雄,1909年山梨県生まれ。京都大学理学部卒。1973年,大阪市立大学教授を定年退職。著書に「化学入門」,「近代化学の父・ドールトン」,訳書に「世界をゆるがした十日間」等。

 

 








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