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付録18 化学史年表

 

錬金術

 錬金術は,中世に全ヨーロッパで栄えた原始的化学技術で,その目的は卑金属を

貴金属に変化させること,および不老長寿薬あるいは万能薬を発見創製することに

あった。起源は明らかではないが,34世紀頃エジプトに起こり,シリアを経て

6世紀頃アラビアに伝わり,アラビア人がスペインを征服するとともに11世紀頃ヨ

ーロッパに入ったと考えられている。18世紀に近代化学の基礎が確立されるまで

1000年以上も続いた。錬金術師によれば,全ての物質はある『根源物質』を基礎と

し,これに種々の属性が与えられ万物を生じる。したがって,物質を精製浄化する

ことにより根源物質に還元し,これに他の属性を与え別の物質が得られるとした。

そこで,その方法の発見に努力が集中された。

 錬金術師の学説は神秘的形式をとり,実験法は魔術的色彩を帯び,学として近代

的方法を持たないが,技術としては冶金・製薬・染色などに寄与したし,また1000

年の間に発見された豊富な化学的事実は近代化学の礎石をなす資料となった。

 

原子説と分子説

 物質が粒子から構成されているという考えは,古代ギリシアの時代から始まって

いる。しかし,それらは哲学的な思索によるもので,実証的なものではなかった。

むしろ,アリストテレス達による,物質構造の連続説が中世ヨーロッパを長く支配

し,粒子説は日の目を見なかった。しかし,18世紀になると,いろいろな実験事

実が積み重ねられ,物質観もそれらの基盤の上に立つようになった。特に気体の化

学反応の研究が進み,その量的な関係についての法則が数多く発見されるにいたっ

て,粒子説が連続説にとって代わるようになった。

定比例の法則》 天然にはクジャク石として産し,また銅の緑青として知られて

いる水酸化炭酸銅CuCO3Cu(OH)2をプルーストは研究していた。彼はこれを加熱

すると,まず水が得られ,強熱すると二酸化炭素が得られ,後に酸化銅(II)が残る

ことを知った。プルーストはこれらを正確に分析して,天然のものでも人工のもの

でも,組成は全く同じであることを発見した。

倍数比例の法則》 ドルトンは,メタンCH4とエチレンC2H4について研究して

いるとき,一定量の炭素に結合している水素の量が21になっていることに気づ

いた。その後,炭素・硫黄・窒素の酸化物についても検討し,倍数比例の法則を導

き出したといわれている。この法則は,定比例の法則とともに,物質構造の不連続

性を示しており,ドルトンは,これらを背景として原子説を提唱することになった。

気体反応の法則》 ゲーリュサックの第二法則ともよばれ,実験的に導き出され

たものである。反応に関係する物質がすべて気体でなくても,反応に関係する気体

の相互間にあてはまる。たとえば,Fe2O33CO2Fe3CO2の反応において

COCO2の間には,体積比が11であるという気体反応の法則があてはまる。

 気体反応の法則を原子説で説明しようとすると矛盾につき当たる。このため,ド

ルトンは気体反応の法則を否定したといわれている。しかし,この矛盾は後にアボ

ガドロによって見事に解決され,原子説・気体反応の法則のいずれにも矛盾しない,

分子説がうち立てられることになった。

アボガドロの法則》 アボガドロは,原子説と気体反応の法則を結びつける試み

として,分子仮説を提唱した。たとえば,水素や酸素の単体では,2個の同種原子

が結合して1分子ができるとした。しかし,化学結合の考え方がまだ定着していな

かったため,2原子が結合する必然性が説明できなかったので,この仮説は当時な

かなか認められなかった。彼の死後,1860年になって,弟子のカニッツァーロが

再びこの説を提唱し,実験事実を満足に説明できるただ一つの考え方として,よう

やく認められるようになった。

 

ドルトン

 イギリスの化学者・物理学者で,1766年に寒村の織物工の子として生まれた。

小学校教師,専門学校の教師を経て,個人教師となる。気象学,気体の物理学・

化学の研究に没頭した。混合気体における分圧の法則(1802),定比例の法則,

倍数比例の法則,ヘンリーの法則などを特に研究した。1808年に原子仮説に基

づく化学体系を発表し,今日の原子の概念を確立した。生涯,気象学への興味を

失わず,1844727日に没する前日まで観測し,観測回数は20万回にも及ん

だ。また,彼自身が色盲であることから,色盲についても研究している。色盲の

ことをdaltonismとよぶことがあるのはこのためである。

 

 

ヘスの法則(総熱量不変の法則)

 この法則は,エネルギー保存の法則が物理変化のみならず化学変化にも適用でき

ることを示した科学史的意義をもつ法則で,その発表はエネルギー保存の法則に先

立ち,1840年スイス系ロシア人G.H.ヘス(18021850)によって行われた。

 ヘスの法則の内容は,「反応熱は,その反応の初めの状態と終わりの状態で決ま

り,途中の経路には関係しない」というもので,化学反応に伴う熱現象を扱う熱化

学の基本法則である。また,エネルギー保存の法則を化学変化に適用したものであ

ることから,「総熱量保存の法則」とも呼ばれている。

 ヘスの法則により,直接に測定することの困難な反応熱を,別の反応の反応熱か

ら計算により求めることができるようになった。

 

ヘス

1802年,スイスのジュネーブで生まれ,1850年,ペテルスブルグで没した。化

学者にして医者。父は教師で,1805年,ロシアのペテルスブルグにつれていかれ

た。1822年〜1825年,ドルバトの大学で医学教育を受け,その他化学と地質学を

学んだ。スウェーデンの大化学者ベルツェリウスと1か月を過ごした後,ウラル山

脈の地質探険隊に参加し,その後イルクーツクで医師となった。1830年には再び

ペテルスブルグに戻り,2年後にペテルスブルグ工科大学の教授となった。1838

年まで,主として鉱物と有機化学の研究を行い,1840年と1842年に熱化学の古典

的論文を出版した。これが有名なヘスの法則の発見である。

 彼の著書純粋化学の基礎は,ロシアの代表的教科書として使われたが,1860

年にメンデレーエフの著書にとって代わられた。

 

酸と塩基の歴史

 ヨーロッパが中世に入る頃,酸としては食酢と酸性果実の果汁が知られており,

王水の性質についても知られていたようである。また塩基としては,ソーダー(

酸化ナトリウム,水酸化カリウム,炭酸ナトリウム,炭酸カリウム)や石灰につい

て知られていた。

 中世におけるヨーロッパの化学は,その多くをギリシア科学を受け継いだアラビ

アの錬金術(Khemeiaalchemy)負っている。錬金術の1つの重要な発見は,鉱

(硝酸,硫酸,塩酸)の発見である。

16世紀ごろから,ヨーロッパは文芸復興期に入り,化学の発展も急テンポにな
った。ボイルの法則で有名なR.Boyle(イギリス,16271691)は,酸がリトマス
を赤変させることを確認し,Wilhelm Homberg(ホムベルグ,オランダ,1652
1715)は,酸がアルカリを中和することを見いだし,K.W.シェーレ(スウェーデ
ン,17421786)はシュウ酸,クエン酸,安息香酸などの有機酸を見いだした。
 18世紀の中頃から酸・塩基の性質をより根本的に説明しようという動きが出は
じめた。まずA.L.Lavoisier(ボアジエ,フランス17431794),酸素がす
べての酸のもとであり,酸は必ず酸素を含むと考えた。この考えはJ.J.ベルセ
リウ(ウェーデン,17791848)よって,“酸とは酸となりうる元素(非金属)
と酸素の化合物で,塩基とは金属と酸素の化合物である”と修正された。しかし
1810H.ーヴィー(イギリス,17781829)よって塩酸には酸素が含まれな
いことが明らかにされ,酸の働きに酸素が必要であるという考えは否定された。

P.L.デュロン(フランス,17851838),酸と塩基(酸化物の塩基)反応の際に

は,酸の中の水素と酸化物の中の酸素から水が生じることに注目した。デーヴィー

とデュロンの考えをもとに,J.F.リービッヒ(イツ,18031873)は,1838年,

“酸は水素の化合物であり,その水素は金属イオンで置き換えられる。”
という考えを発表した。この定義が今日の酸の定義の出発点となっている。

酸の発見史

年代

酸の名称

発 見 者

年代

酸の名称

発 見 者

1600

硫酸,硝酸,王水

 

1785

リンゴ酸

K.W.Scheele

1786

没食子酸

1630

二酸化炭素

J.B.van Helmont

1786

フッ化水素酸

1646

塩酸

J.R.Glauber

1813

ヨウ化水素酸

J.L.Gey-Lussac

1703

純氷酢酸

G.E.Stahl

1814

塩素酸

1743

オルトリン酸

A.S.Marggraf

1833

ベンゼンスルホン酸

E.Mitscherlich

1764

ヒ酸

H.Cavendish

1769

酒石酸

K.W.Scheele

1834

次亜塩素酸

A.J.Balard

1776

シュウ酸

1841

純フェノール

A.Laurent

1777

硫化水素

1846

1852

アミノ酸

J.Liebig

1778

モリブデン酸

1779

乳酸

1886

五酸化二リン

T.E.Thorpe

1784

クエン酸

1890

三酸化二リン

 

 

ダニエル電池

1836年,イギリス人の化学者ダニエルによって考案されたもので,起電力の変

化が少なく,気体も発生しないので,ボルタ電池よりも数段優れたものとして評

価された。当初は銅イオンが亜鉛室に移って自己放電を起こすという欠点があった

が,いろいろな構造の改良を行い,電話交換機用電源として実用化された。

 ダニエルJ.F.Daniellは,1790年ロンドンに生まれ,1845年没。1831年,ロン

ドンのキングスカレッジ設立の際に化学教授となる。1831年以降,英国学士院会

員。ダニエル露点湿度計,ダニエル電池,銅亜鉛熱電対の発明で有名である。塩

類の水溶液の電解による研究もある。

 

ボルタ電池

 イタリアの医学者ガルバーニ(17571796)は,カエルを金属板の上に置いた

ときけいれんを起こすことを観察し,この現象を筋肉中の生物電気だと考えた。し

かし,イタリアの物理学者ボルタは,カエルに起こるけいれんは,動物自身がもつ

電気ではなく,金属の接触電気によるものと考え,これにヒントを得て,水に濡ら

した紙や布を亜鉛と銅ではさむと,そこに電気が生じることを発見し,後にボル

タ電池を考え出した(1800)。これが電池の起源で,ボルタはこの電池はいつま

でも使えると考えたが,実際は,銅の表面を水素気泡がおおってしまって,すぐに

使えなくなった。

 ボルタAlessandro Voltaは,1745218日生,182735日没。初め,

Pavia大学,1815年以後Padova大学の教授。ボルタ電池を発明し定常的な電流

を得て,化学反応が電流を生み出すことを明らかにした。電位,電圧の単位ボルト

volt(記号X)は,彼の名にちなんでつけられた。

 

乾電池

 現在最も一般化されている乾電池は,ルクランシェ形乾電池である。ルクランシ

ェ電池の乾電池化は,19世紀末(18801890)に多くの人によって研究され,工

業製品として市場に出るようになったのは1890年である。

 現在わが国で使用されている乾電池は,メーカーによりその成分や構造が少しず

つ違っているようであり,教科書では,最も多くの専門書や教科書に記載されてい

るものを示した。乾電池の反応は複雑で,簡単に説明できないが,一般的には次の

ように説明されている。

 負極では亜鉛が溶けて電子が放出される。このときの生成物は,pHによって次

のように変化する。
(1)
 pH5.15.8 Zn2NH4Cl ZnCl22NH42e-

ZnZn22e- (Zn2として溶ける)

(2) pH5.87.85 Zn2NH4Cl2H2OZn(NH3)2Cl22H3O2e-

(Zn(NH3)2Cl2が沈殿析出する)

(3) pH7.859.3 Zn4NH4Cl4H2OZn(NH3)4Cl24H3O4e-

([Zn(NH3)4]2として溶ける)

正極では,MnO2の粒子内部に,NH4H30から分離したHが拡散してくる。
また,負極から導線を通して炭素棒に電子が流れ込み,MnO2は還元されて
MnO(OH)(またはMn2O3H2O)になる。そして,このMnO(OH)は未反応のMnO2
中に拡散していくと考えられる(1.50.75Vくらいの放電の間の反応)
   MnO2NH4e- MnO(OH)NH3
   MnO2H3Oe- MnO(OH)H2O     (MnO2He- MnO(OH))
 正極での反応もpHにより,また反応が進むと変化する。反応が進んだときは
Mn2が生じると考えられている(主としてpH0.56)
   MnO24H2e- Mn22H2O
 全体の反応としては,次の式が一般的に受け入れられている。
   2MnO22NH4ClZn2MnO(OH)Zn(NH3)2Cl2
 また,電解液に塩化亜鉛を多く含む塩化亜鉛型電池の場合は,全体の反応が次式
のようになると考えられている。
  8MnO28H2OZnCl24Zn8MnO(OH)ZnCl2Zn(OH)2

ファラデーの法則

 この法則は,1833年ファラデーM.Faradayによって導かれた電気分解に関する法

則であって,電気分解の法則とも呼ばれている。その内容は,普通,次のように

2つの内容を併記することが多い。

(1) 同じ物質については,電気分解において析出(または溶解)する物質量は,通じ

 た電気量に比例する。

(2) 異なる物質については,単位電気量によって1電気化学当量の物質が析出(

 たは溶解)する。

 電気分解では電子1molあたりの電気量9.6485×104C/molを単位に用い,これ

をファラデー定数という。この電気量で陽イオンMz1電気化学当量は,1/z

molになる。したがって,流れた電気量がQCのとき,析出する金属Mの物質量

nmol〕は, n(Q/F)×(1/z)Q/Fzとなる。

 また,この法則は,電気分解において変化する物質の量と電気量の関係が,電解

質・電極の種類や量,溶液の温度や濃度に無関係であることを示している。

 

ファラデー

イギリスの化学者,物理学者。1791922日生,1867825日没。1813
年, H.Davyの助手として王立研究所に入り,1833年に同研究所の化学教授とな
る。同年電気分解の法則を導く。他にも多くの業績がある。ベンゼンの発見(1825
),ナフタレンスルホン酸の発見(1826)などは化学上のものであるが,塩素の
液化(1823),電磁誘導現象の発見(1831),電場・磁場の概念の確立(1837)
真空放電におけるファラデー暗部の発見(1838),反磁性物質の発見(1845)
ど,物理学の上での功績が大きい。

希ガスの発見
 空気は水蒸気と二酸化炭素がわずかに含まれた,酸素21%と窒素79%の混
合気体であると長い間考えられていた。1785年,キャベンディシュは,空気中の
窒素を酸化して得た酸化窒素をアルカリ溶液に吸収させると,最初の空気の1/120
以下の吸収されない気体の泡が残ることを見いだした。
 1894年,イギリスのレイリーは,空気をアンモニアと混合して,赤熱した銅の
上を通過させた。
   4NH33O2 6H2O2N2
 これを硫酸中に通して過剰のアンモニアを除くと,純粋な窒素が得られると考え
た。ところが,アンモニアと空気からつくった窒素の密度のほうが,酸化窒素ある
いは硝酸アンモニウムを分解して得た純窒素よりもわずかに大きいことに気づき,
ラムゼーとともにキャベンディシュの実験をくり返し行い,分光器で調べて,次々
と希ガスを見いだした。

 

レーリー(レイリー)

 イギリスの物理学者。18421112日生,1919630日没。前名John

William StrnttCambridge大学の研究員,教授,名誉総長Royal Societyの会

員,会長National Physical Laboratory所長などを歴任した。音響学,光学での

研究が多く,黒体輻射のエネルギー分布を示すレイリー-ジーンズの輻射式を

導き,青空の色を示すレイリー散乱の理論を出した。気体の密度の研究とそれに伴

うアルゴンの発見(1894)で,1904年にノーベル物理学賞を受賞した。

 

ラムゼー

 イギリスの化学者で,1852102日,グラスゴーに生まれた。グラスゴー,

ブリストル,ロンドンの各大学教授を歴任した。化学量論に関する発見もあるが,

希ガスの発見は彼の大きな功績といえる。1894年,レイリーと伴にアルゴン

を発見し,1898年にはトレバースと伴にネオン,クリプトン,キセノンを発見

した。これらの業績により,1904年にノーベル化学賞を受賞した。1916723

日没。

 

有機化合物の歴史

 有機化合物organic compoundsの名称は,生物organismにちなんで,1806年に

化学者ベリツェリウスBerzeliusが初めて使ったとされる。18世紀後半に有機物

の新発見が相次ぎ,無機物との性質の違いが認められて,このように区別される

ようになった。当時は,有機物が動植物の生命力によってのみつくりだされ,人工

的に合成することは不可能と信じられていた。ところが,1828年,ベリツェリウ

スの弟子ウェーラーWöhlerは,リービッヒとの共同研究(シアン酸銀と雷酸銀,

シアン酸と雷酸の研究)の中で,シアン酸とアンモニア水から加熱によりシアン酸

アンモニウムをつくろうとして,尿素を得た。

   HOCNNH3NH4OCN(NH2)2CO

この反応は,無機物から有機物が生じる反応であり,当時としては考えられない反

応であった。ウェーラーは慎重に何ども実験を繰り返し,ベリツェリウスに「動物

(腎臓)を使わないで尿素が得られること」を知らせるとともに,この事実を公表し

た。当時,ベリツェリウスを始め多くの化学者は,この実験的証拠を承認しよう

とはしなかった。しかし,その後,次第に有機化合物が合成されるに及んで,生

命力の説は顧りみられなくなった。そして,有機物も無機物も本質的には同じで

あることが認識されるようになった。

 また,フランスのラボアジエは燃焼実験から有機物が炭素,水素,酸素及び窒

素からなることを明らかにしており(1784),炭素が有機物の特徴をなす元素で

あることが注目され,1848年にグメリンGmelinは「炭素化合物が有機化合物で

ある」と指摘して現在の有機化合物の概念が確立した。1858年にはケクレKekule

により,炭素原子が4価であり,また互いに結合しうることなどが指摘された。こ

うして,有機物の化学構造の基礎が確立され,19世紀後半には有機合成が行われる

ようになり,以後有機化学は各方面に発展して現在に至っている。

 

最初に合成された有機化合物は尿素か

 無機物から合成された最初の有機化合物は,一般には尿素とされている。しかし,

ゲーリュサックの化学講義録(1828)によると,1824年にウェーラーはシュウ酸

の合成に成功していたようである。この中で,酸化炭素は化学式CO,炭酸は化学

CO2,シュウ酸は化学式C2O3,その結晶は化学式C203 · 3H2Oと表されるように

説明されている。シュウ酸結晶の現在の化学式はC2OH2 · 2H2Oであるが,

C2O3 · 3H2Oと表したため,シュウ酸は無機化合物として扱われた。

 

芳香族炭化水素

1845年,A.W.ホフマンHofmannがコールタールの分留によりベンゼンを分離

して以来,石炭の乾留やコールタールから,多くの芳香族炭化水素が得られた。芳

香族の名称は,一般に芳香をもっていたためで,ケクレによって命名された。

 芳香族炭化水素には,ベンゼンの水素原子を置換したものや,2個以上のベンゼ

ン環をもつもの,縮合環をもつものなど,多数のものが知られている。

 

ベンゼンの構造

 ベンゼンは,分子式C6H6からみると非常に不飽和度が高いが,臭素付加はもち

ろん,過マンガン酸カリウムにも酸化されないなど,飽和化合物と同等に安定であ

る。ベンゼンはその2置換体が3種類(オルト,メタ,パラ)1置換体が1種類し

か存在しないことなどから,6個の水素原子はすべて同等であること,また,6

の炭素原子もすべて同等であることなどから,次式(1)(2)のような,いわゆる

ケクレの構造式で示される2種類の構造の間を振動していると説明されていた。ケ

クレは,この構造を,夢の中で炎がヘビになって自分の尻尾を飲み込むのを見て着

想したといわれている。

 その後,X線分析などにより,6個の炭素原子はすべて同一平面上にあり,炭素

間の結合角はすべて120°であることから,正六角形の構造をしていることが解明

された。これらの研究結果を総合するとC-C間の距離はどこも0.140nm(C-C

結合間は0.154nmC=C二重結合間は0.133nm)であることがわかった。

 したがって,ベンゼンはC-C0.140nmの正六角形の平面構造をもっているこ

とになるが,このような構造を式で表すことは困難であるので,式(1)または式(2)

構造の間を共鳴しているといっている。しかし,実際には(1)または(2)のどちらか1

つの式で示す。

 ベンゼン環の炭素原子のL殻の電子は,3個のsp2混成軌道と1つの2p軌道に

配置されている。sp2混成軌道のうち,2つは隣の炭素原子とのs結合に,残りは

水素原子とのs 結合に使われている。2p軌道の電子は,隣り合う炭素原子とのp

結合に使われ,このp 結合がベンゼン環の6個の炭素原子に均等に分布するので,

ベンゼン環独特の性質が生まれる。

 

 

 

 

 








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