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第2節 歴史に見る化学の探究
◆疑問と仮説
ラボアジエは,燃焼の過程を説明するのにフロギストン説では矛盾する場合があ
ることに気づき,「疑問」をもったのであろう。そして,実際にいくつかの物質を
空気中で加熱してみて,その結果を予断なく考察する中からフロギストン説は誤り
で,燃焼とは燃えるものが空気またはその一部と結びつく現象ではないかと予想し
た。いわば,燃焼について彼なりの「仮説」を立てたのであった。
あるテーマについての自然探究の動機は,まず「疑問」をもち,手短かな実験を
行うなかで「仮説」を立ててみることである。
◆フロギストン説
可燃性の原質であるフロギストン(燃素)によって,燃焼や金属の酸化(灰化)など
を説明した理論。G.Stahlが可燃性という特定の性質を担う原質をフロギストンと
名づけたが,この原質は古くにはT.Paracelsusの硫黄,さらにJ.Becherの油性の土
に由来する。この理論によると,金属の中に含まれるフロギストンが加熱により
金属から離れる現象が灰化であり,逆に金属灰をフロギストンに富む炭素と加熱
するときには,フロギストンが炭素から金属灰に移って金属が再生されるとした。
この説明は硫黄などの非金属の反応にも適用された。今日の考え方では,フロギ
ストンは負の酸素といってもよい。また,燃焼における空気の役割は,可燃物が
燃えて出てくるフロギストンを受け取ることであると考えられた。だから,その
中で燃焼が支えられなくなった空気はフロギストンで飽和されたと見なされ,フ
ロギストン空気とよばれた。J.Priestleyは酸素を発見したとき,その中で物が激し
く燃えることを観察して,その空気がフロギストンを含まないためだと理解し,
脱フロギストン空気とよんでいる。この理論は,統一性のなかった多くの化学現
象を統括することを可能にした。約一世紀にわたって用いられたが,A.Lavoisier
の酸素による燃焼理論の出現とともに衰退した。
(化学大辞典)
参考 フロギストン説とラボアジエの燃焼理論
可燃性物質が燃焼するとき,炎とともに何かが逃げていくように見える。この現
象から,燃焼とは物質からフロギストン(燃素phlogiston)が失われることである
というフロギストン説が生まれた。この説は,初めJ.J.ベッヒャー(ドイツ,1635
〜1682年)が唱え,G.E.シュタール(ドイツ,1660〜1734年)によって発展した。シュ
タールはフロギストンという名称を与えたばかりでなく,フロギストンを用いた燃
焼の理論体系を考え出した。すなわち可燃性物質はフロギストンを多く含む物質で
あり,燃焼とはそれらの物質がフロギストンを失う現象であり,金属が錆びるのも
燃焼と同じ現象で金属がフロギストンを失う現象と考えた。また金属酸化物が木炭
などによって還元されるのは,金属酸化物が木炭などのフロギストンを多く含む物
質からフロギストンを受け取るからであると考えた。
金属 − フロギストン→ 金属酸化物
金属酸化物 + フロギストン(木炭などから) → 金属
A.L.ラボアジエは,リン・硫黄の燃焼,スズの加焼の実験などから,これらの
変化に際して空気のかなりの部分が固定されて,その結果重量が増加すると考え
た。この固定される空気の部分がK.W.シェーレ(スウェーデン,1742〜1786年)
とJ.プリーストリ (イギリス,1733〜1804年)によってそれぞれほぼ同時に発見
された気体(酸素,プリーストリによれば脱フロギストン空気)である。このこと
を含めた燃焼理論を確立したラボアジエは,「フロギストンに関する省察」(1783
年)や「化学原論」(1789年)によって,酸素による燃焼理論がいかに合理的である
か,それに反してフロギストン説による燃焼の説明がいかに複雑で,自己矛盾に
満ちているかを指摘し,フロギストン説を訂正した。
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気体の発見 |
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年 |
発 見 者 |
気 体 |
発見者の命名 |
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1754 |
J.Black(イギリス) |
二酸化炭素 |
固定空気 |
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1766 |
H.Cavendish(イギリス) |
水素 |
可燃性空気 |
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1769〜73 |
K.W.Scheele(スウェーデン) |
酸素 |
火の空気 |
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1772 |
D.Rutherford(イギリス) |
窒素 |
フロギストン化空気 |
|
〃 |
J.Preistley(イギリス) |
塩化水素 |
酸の空気 |
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1774 |
K.W.Scheele(スウェーデン) |
塩素 |
脱フロギストン塩酸 |
|
1775 |
J.Priestley(イギリス) |
酸素 |
〃 空気 |
◆実験・測定
仮説が設定され,テーマが決まれば,具体的に詳細な定量実験を進めることにな
る。ラボアジエは,スズ,鉛,水銀などの金属や硫黄をはじめとする非金属,さら
には有機物について,空気中で加熱するときの変化を観察した。色や状態の変化な
どの定性的変化はもちろんであるが,特に質量の変化に着目して定量的変化を詳細
に測定したことが重大な発見の糸口になっている。
実験を進めるに当たって,当然,試料や器具の用意,安全の確認など,慎重に計
画を立てたことであろう。質量の測定には天びんが必要であるが,ラボアジエの成
功の蔭には要求する精度にたえる天びんが準備できたことがあげられよう。結果か
らいえば,彼の実験をバックアップする器具・用具・材料の製作者が周辺にいたこ
とが想像できる。
器具・用具によっては専門家による製作が間に合わないこともあろうし,実験者
が望む機能や精度に達しない場合もあるだろう。ときには,探究者自身が器具・用
具の開発をすすめなければならないこともあると思われる。
◆現在の器具を用いてのラボアジエの実験の追試
ラボアジエが行った数多くの実験のうち,加熱によって元の物質の質量が増加
した例をとり上げて追試したものが,教科書のp.258〜259である。スズの加熱に
よってその表面が黒色に変化したとBに述べてあるので,このときSnの一部が
SnO2変に変化したものと考えられる。この実験では容器に入れたスズがすべて酸
化するわけではないので,スズと酸素の化合比は求められないが,容器内の酸素
がほぼすべて用いられ,その質量が定量的に測定されており,質量保存則が導か
れた過程がわかる。
|
操作 |
(容器+空気) |
容器内のSnまたは |
質量の合計〔g〕 |
|
番号 |
の質量〔g〕* |
SnO2の質量〔g〕 |
|
|
@ |
10.0463 |
15.2960 |
25.3423 |
|
A |
10.0276 |
15.2960 |
25.3236 |
|
|
(@−0.0187) |
|
(@−0.0187) |
|
B |
Snの表面が黒くなり,Snの一部が酸化さ |
25.3245≒A |
|
|
|
れる。 |
|
|
|
C |
10.0463 |
15.3061≒D |
25.3524≒D |
|
|
(A−0.0101 |
(@+0.0101) |
(@+0.0101) |
|
|
+0.0101+0.0187) |
|
|
|
D |
10.0463 |
15.3064≒C |
25.3527≒C |
*各操作で,容器には空気による浮力が加わっている。本来はこれを差し引いた値が正し
い質量になるが,この実験では相対的な質量変化をみるのが目的であり,浮力を無視し
た数値を並べてある。なお,この実験での浮力は約0.0509gwである。
◆結果の考察
この実験の結果を考察すると,次の事項を読みとることができる。
(1) 容器の加熱前と加熱後では,スズの表面の色の変化から,明らかにスズの一部
は別の物質に変わっている。しかし,操作AとBの質量の合計値は,わずかの誤
差を含むがほぼ一定で,容器全体の質量変化はなかったといえる。すなわち,容
器全体の質量は保存されている。
(2) スズは加熱後には加熱前に比べ0.0104gだけ質量が増えた。一方,加熱後に
冷やしてからコックaを開けると,空気が音をたてて入り,容器全体の質量が加
熱前に比べ0.0101g増えた。このことは,容器内の空気の一部(酸素)が0.0101
g〜0.0104 gほどスズの表面に固定されたことを示す。すなわち,加熱という操
作によりスズが空気の一部と結合したと考えられる。燃焼において,フロギスト
ンが放出されるというフロギストン説は誤りであることが実証された。
(3) 操作Bにおいては,それ以上変化しなくなるまで熱しているので,スズが過剰
にあることを考えれば,スズと結びつく空気の一部(酸素)はほとんど用いられた
ことになる。初めに容器内に入っていた空気が0.0509gであれば,スズと結び
っいた空気の一部(酸素)は0.0101〜0.0104gであったから,質量で約23%,体積
で約21%ということになる。
ラボアジエは,以上のような実験・測定・考察を数多くの物質について行い,現
代化学の原点ともいうべき,「質量保存の法則」を見出し(1774年),「燃焼の理論」
を確立した。
◆ラボアジエ
1743〜1794年。フランスの化学者。パリの生まれ。法律家を志したが,自然科
学に興味をもち,地質学者と協力し地質図・鉱山図を作成,都市の照明についての
論文,セッコウについての実験論文などを書き,1768年25歳でパリの科学アカデ
ミー副会員となった。1776年以来,硝石火薬工場監督官を勤め,また1790年には
度量衡委員会の委員となった。硝石火薬工場の中に自宅があり,自宅内に化学実験
室をつくり,多くの化学研究を行った。また,1780年以来徴税請負人の職にもあ
ったが,このためフランス革命に際して公訴され処刑された。Lavoisierの仕事で
最も重要なものは,これまでのフロギストン説を否定して,酸化をその物質が酸素
を取り込むこととして正しく説明し,その化学反応にあずかる物質の重量関係を確
定し,「質量保存の法則」を明らかにしたことである。酸素を初めてつくったのは
Lavoisierではなく,C.W.ScheeleとJ.Priestleyが独立になしたことであった。
そのPriestleyが1774年,パリに来て自分の実験をLavoisierに語ったのである.
また,Lavoisierは1783年,C.Blagdenによって,水の組成についてのH.
Cavendishの実験について知らされた。これらの発見に基づいてLavoisierは燃焼,
金属の灰化,呼吸を一つの原理によって説明する反フロギストン理論をつくり上げ
たのである。また,彼は有機物の元素分析法をはじめ,近代有機化学の基礎を据え
るのに貢献した。1789年に出版した『化学教科書』には,質量保存の法則が述べ
られ,また現在の技術で分解されうる窮極のものという定義のもとで33個の元素
(単体)があげられている。ただし,その中には光と熱素もあげられている。
(化学大辞典)
◆没後200年,斬首された「現代化学の創始者」ラボアジエに再び光を
原光雄(元大阪市立大学教授)著(1994年5月6日付朝日新聞夕刊の記事より引用)
18世紀後半期の化学は,四元素説(空気・水・火・土)や燃素説(燃素という元素
があると主張する説)に支配されていたが,1775年に英人プリーストリが酸素を発
見したのを受けて,ラボアジエはこの酸素こそ元素にちがいないと洞察した。これ
を起点として,水素,窒素,炭素,金,銀,銅,鉄と元素を決めてゆき,33個の
元素を列記した表を提示して,新しい元素説を確立した。
ドールトンは,この元素説にニュートンの原子概念をむすびつけて原子分子説を
確立。現代化学は,このような元素説と原子分子説を土台として築きあげられたの
で,ラボアジエとドールトンは現代化学の創始者と呼ばれている。
しかし,2人の人生は対照的だった。イギリス・マンチェスターで化学の研究に
専念しつつ平穏な一生を過ごしたドールトンに対して,ラボアジエは波乱の生涯を
送った。フランス革命の末期,ロベスピエールの恐怖政治の真っ最中に,パリの中
心コンコルド広場に据え付けられたギロチン(断頭台)で,斬首(ざんしゅ)されたのである。
時は1794年5月8日午後6時15分ごろ。享年50歳8カ月。28人の斬首は24
分間で終わり,遺体から噴き出す血潮で辺り一面は血の海となった。大勢の見物人
が一部始終を見ていたが,こういう光景は毎日のことなので,特に非難の声を発す
る者もなかった。そのとき処刑された28の遺体は馬車に積み重ねられて,共同墓
地の大穴にほうり込まれた。だから,ラボアジエの死には葬儀もなかったし,墓碑
もない。
ラボアジエが革命裁判所で死刑の判決を下されたのは,彼が徴税請負人だったか
らである。徴税請負というのは,国税の若干(塩税,酒税,商品関税その他)の徴収
を,60人の金持ちが出資して請け負うという制度で,約2万人の部下を督励して
きびしく取り立てたので,出資額に対して約6ないし10%のもうけがあったとい
ぅ。国民の血税の中からもうけを取ることになるので,人々は徴税請負人に対して
は反感をいだいていた。請負人は単なる株主ではなく,同時に役員や幹部として多
忙であった。ラボアジエは25歳の時,株を購入して請負人となったが,その後32
歳のときに火薬管理官という国家官吏にも就任したので,化学者としての仕事と合
わせて,3人分の仕事を1人で兼務することになった。
昼間の活動時間の大部分を他の職務に取られてしまって,全日を化学に充てるこ
とができたのは,週に1日だけであった。そこで彼は毎日,朝6時から9時までと
晩7時から10時までの計6時間を,化学に割り当てることにした。
毎日,朝6時から晩10時までの全時間が就業時間だという猛烈な時間表である。
こんな時間割りを作り得たのは,住居に隣接して実験室を持っていたからである。
彼は火薬管理官に就任してから,住居を造兵廠(しょう)の構内へ移し,私費を投じて,
最高級と評された実験室を造り,高価な実験装置を特注していた。実験助手たちへ
の給与も私費から支払っていた。
通例では化学者にとって化学は生業である。大学の研究室などで化学に精励する
ことで生計費を得て,いるのである。だが,ラボアジエにとっては化学は生業ではな
くて聖業であった。精力的に働くラボアジエという人物の中には,世間の悪評にも
ひるむことなく金もうけに専心する徴税請負人と,大金を投入して無報酬で自然の
真理探究に打ち込んだ化学者とが,仲良く同居していたのである。
彼の死から100年以上たった1900年に,コンコルド広場から至近距離にあるマ
ドレーヌ教会堂の裏手に,ラボアジエ銅像が建てられた。台石の銘板には「現代化
学の創始者」と書かれていた。だがこの銅像も,第2次世界大戦中にパリを占領支
配していたドイツ軍が,兵器製造のために鋳つぶしてしまった。本人はギロチンで
処刑されて50歳で生涯を閉じたが,その銅像もまた敵軍によって鋳つぶしの刑に
処されて約44歳の生涯を閉じたわけである。前者では徴税請負人が処刑されたの
だが,後者では大化学者が処刑されたのである。
私はラボアジエの化学での偉業と凄惨(せいさん)な死にざまとに,若い時から関
心をいだき,最初の著書は『大化学者(上)ラボアジエ』(1941年)であった。その後,
『ラボアジエ』(1950年)をも出版した。日本人が書いたラボアジエ伝は目下のとこ
ろ,私の著書だけのようであるが,両書とも絶版となって久しい。
ドールトンについては,マンチェスター市内に大理石像と銅像が100年以上前か
らあって,今も市民に親しまれている。それに比べ,ラボアジエはいかにも不遇で
ある。
没後200年の記念日である5月8日を前にして,私は何とかしてパリのマドレー
ヌ教会堂の裏に,ラボアジエ銅像を再建したいなあ,と考えている。そのためには,
なけなしの貯金を投げ出してしまおうかと思案中である。
著者招介;原光雄,1909年山梨県生まれ。京都大学理学部卒。1973年,大阪市立大
学教授を定年退職。著書に「化学入門」,「近代化学の父・ドールトン」,訳書に「世界
をゆるがした十日間」など。