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3節 化学変化とその量的関係

A 化学反応式

化学反応式

 両辺を結ぶ記号は,矢印(―→)を用いるので,一見,質量保存の法則を表す意義が失われているように見えるが,化学式の係数で両辺の各原子の数が等しくなるようにしているので,両辺の質量の総和が等しくなり,本来の意味は保存されている。化学反応式は,反応が始まる最初の物質種の量と反応が終わった後の最後の物質種の量との量的関係を示すものであって,反応の途中の様子は一切省かれている。

 

イオン反応式

 イオン反応式は,反応の実質が何かを示そうとするものである。そのため,反応に関与しない部分(イオン)は書かない。

 亜鉛や鉄が強酸と反応して水素を発生するのは,強酸中にHが生じており,このHに亜鉛や鉄が電子を与えてH2にするからである。当然,金属はZn2あるいはFe2に変わる。したがって,Hが存在することが重要なのであって,酸の陰イオンが何なのか,即ち酸の種類はこの場合関与しない。

   Zn2H ―→ Zn2H2

   Fe2H―→ Fe2H2

 塩酸に水酸化ナトリウムを加えて中和させるとき,化学反応式では次の様に書く。

   HCl+NaOH ―→ NaClH2O

ところが水溶液中では,HCl(HCl)NaOH(NaOH)NaCl(NaCl)の様に電離する。したがって,中和反応の本質は,酸性を示すHと塩基性を示すOHが,中性のH2Oになる変化だけなので,イオン反応式は,

   HOH―→ H2O

となる。

 

B 化学変化の量的関係

化学変化の量的関係の計算の原則

 化学変化の係数の比は,反応物と生成物の物質量の比に相当する。したがって,「物質を全てmol単位に換算し,それを係数に比例させて計算するのが量的関係の原則である」と指導することが望ましい。mol単位で解を求めた後,題意に応じて質量なり体積なりに換算すればよい。このような方法をとれば,化学変化の量概念を正確にとらえることができ,複雑な反応についても十分に理解できる。

 aA+…―→bB+…の化学変化で,Aの量からBの量を求める手続きを次に簡単に示す。Vは標準状態の体積,Mは式量である。

 

Aの量

 

Aの物質量

 

Bの物質量

 

Bの量

 

 

 

 

 

 

 

原子説と分子説

 物質が粒子から構成されているという考えは,古代ギリシャの時代から始まっている。しかし,それらは哲学的な思索によるもので,実証的なものではなかった。むしろ,アリストテレス達による,物質構造の連続説が中世ヨーロッパを長く支配し,粒子説は日の目を見なかった。しかし,18世紀になると,いろいろな実験事実が積み重ねられ,物質観もそれらの基盤の上に立つようになった。特に気体の化学反応の研究が進み,その量的な関係についての法則が数多く発見されるにいたって,粒子説が連続説にとって代わるようになった。

定比例の法則》 天然には孔雀石として産し,銅の緑青の一種として知られる水酸化炭酸銅CuCO3Cu(OH)2をプルーストは研究していた。彼はこれを熱すると,まず水が得られ,強熱すると二酸化炭素が得られ,後に酸化銅(II)が残ることを知った。プルーストはこれらを正確に分析して,天然のものでも人工のものでも,組成は全く同じであることを発見した。

倍数比例の法則》 ドルトンは,メタンCH4とエチレンC2H4について研究している際,一定量の炭素に結合している水素の量が21になっていることに気づいた。その後,炭素・硫黄・窒素の酸化物についても検討し,倍数比例の法則を導き出したといわれている。この法則は,定比例の法則と共に,物質構造の不連続性を示しており,ドルトンは,これらを背景として原子説を提唱することになった。

気体反応の法則》 ゲーリュサックの第二法則ともよばれ,実験的に導き出されたものである。反応に関係する物質が全て気体でなくても,反応に関係する気体の相互間に当てはまる。例えば,Fe2O33CO ―→ 2Fe3CO2の反応においてCOCO2の間には,体積比が11であるという気体反応の法則が当てはまる。

 気体反応の法則を原子説で説明しようとすると矛盾につき当たる。この為,ドルトンは気体反応の法則を否定したといわれている。しかし,この矛盾は後にアボガドロによって見事に解決され,原子説・気体反応の法則のどちらにも矛盾しない,分子説がうち立てられることになった。

アボガドロの法則》 アボガドロは,原子説と気体反応の法則を結びつける試みとして,分子仮説を提唱した。例えば,水素や酸素の単体では,2個の同種原子が結合して1分子ができるとした。しかし,化学結合の考え方がまだ定着していなかった為,2原子が結合する必然性が説明できなかったので,この仮説は当時なかなか認められなかった。彼の死後,1860年になって,弟子のカニッツァローが再びこの説を提唱し,実験事実を満足に説明できるただ1つの考え方として,ようやく認められるようになった。

 

 

 








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