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3節 ゲノムプロジェクト

 

A ゲノムプロジェクトの現状

B 生物の遺伝子の数

◆ヒト・ゲノムプロジェクト

ヒト・ゲノムを決定しようとする国際的プロジェクトは,1989年に,米国立衛生研究所(NIH)内に,ヒト・ゲノム解析機構(Human Genome Organization-HOGOと略称される)の本部が置かれ,世界各国の研究者が協力して,研究を推進することになった。ヨーロッパ支所は英国に,東南アジア支所は大阪大学細胞工学センターに開設された。このようなプロジェクトができるようになったのは,組換えDNA技術以外に,DNAの塩基配列を自動的に決めていく自動DNAシーケンサー,PCR技術といわれるDNAポリメラーゼを利用して試験管内でDNAを大量にふやす技術,特定の遺伝子を得るために,伝令RNAから逆転写酵素(RNAからDNAを合成する酵素)によりDNAを合成する技術など,多くの技術が開発されたためである。

様々な問題も生じた。第1は,NIHの研究者たちが申請した生物特許の件である。彼らは,脳内の伝令RNAをもとにしてDNAを合成し(そのようなDNAcDNAという),それらの塩基配列を決定して,次々と特許を申請した。cDNAの機能が不明であったので,基本的には特許は認められていない。しかし,機能が明白なDNAの塩基配列に関しては,すでに各国で特許が認められ,応用化学や電子工学のように企業的学問と異なり,のどかな趣味的な純粋学問であった生物学は国家権力に結びつくビックサイエンスへと発展(堕落)した。

多大な労力とぼう大な経費をかけてのプロジェクトには反対意見もあったが,企業の参入もあり当初の予定よりもずっと早く2001年にひとまずヒト遺伝子の全塩基配列が報告された。

その後,なんでもかんでも全部を機械的に決めるプロジェクト,転写RNAの塩基配列を全部決めるトランスクリプトム(語尾のオムはゲノムのオム),タンパク質の構造を核磁気共鳴などを駆使してすべて決めようとするプロテオム,代謝過程をすべて決めるメタボロム,分解過程をすべてきめるデグラドムなどが,次々に計画されている。

 

◆ヒトとチンパンジーのゲノムの比較

20045月の段階でチンパンジーのゲノム全体の塩基配列は大まかには決定されている。しかし,それはミスやギャップがまだまだ多く解析には用いることができないレベルであった。しかし,チンパンジー22番染色体(ヒト21番染色体に相当)については,公開されているヒトゲノムと同等の精度で塩基配列が報告された。

mRNAや部分的なゲノムの比較により,ヒトとチンパンジーのゲノム塩基配列は98%以上一致していると推測されていた。ゲノム全体の単純な比較では,配列決定ミスを考慮しても,1個の塩基が異なる確率は1.44%と見積もられた。この点からすれば従来の98%以上が一致しているという予想を裏付けるものであった。

しかし,局所的には著しい違いが見いだされた。タンパク質のアミノ酸配列もその発現パターンにも様々な違いが見いだされ,ヒトとチンパンジーの違いのゲノムに基づく説明はそう単純にはいかないことが明らかになった。また,このチンパンジーの塩基配列は一匹のものでありチンパンジーの多型についても考慮する必要がある。次はゴリラのゲノム配列との比較をすることになろう。

Nature (2004) 429: 382-388(下記は要点)

1.ヒト33,127,944塩基対,チンパンジー32,799,845塩基対

268,000箇所に欠落か挿入変異があった。

3.欠失と挿入は多くの場合は30塩基以下であるが,54000塩基に及ぶ場合もあった。

4231個のタンパク質の83%にアミノ酸配列の違いが存在する

5.ヒト特異的配列の存在やチンパンジー特異的な配列の存在

6.脳と肝臓で数十個の遺伝子発現を調べたところ,その約20%は発現量が著しく異なっていた。

 

C ポストゲノム時代

DNA指紋法

最近,DNAの塩基配列が個人により微妙な違いがあることを利用して,指紋と同じように個人識別を行おうとする方法が発達している。DNAを制限酵素(遺伝子組換え技術などに用いられる特定の塩基配列部分を切る酵素)で切った断片を電気泳動などで比べてみると,個人により違いがあることがわかった。この違いは,血液型などより精度がよいので,犯罪捜査や親子鑑別に利用できる。米国連邦捜査局(FBI)は,1988年に,DNA指紋の検査をできる研究所を開設した。特に,暴力犯罪などに適用されている。米国では,民間企業もこの検査を行っている。日本でも,科学警察研究所が中心となって開発に取り組み,すでに裁判で証拠とし提出された例もあり認められている。また,民間企業でも,英国から技術導入を行って,親子判定などの検査にのり出したところがある。今後,技術の簡易化と,精度の向上により,この方法が個人識別の重要なものとなると考えられている。

将来的には生まれた子供から直ちにDNAが採取され国家機関によって完全に管理される時代が訪れるかもしれない。その情報があれば,例えば,山奥の屍体の身元を直ちに特定することができるようになる。あるいは臓器不全に陥ったら,遺伝情報を元に代用臓器を作成してパーツ交換ができるようになるかもしれない。それはそれですばらしいのだが,国家が信用できないのは歴史が証明している。誤ったデータにより屍体を別人としてしまうかもしれない。遺伝子解析により都合の良い人間だけ(素直で逆らわず従順な人間)のみを優遇するかもしれない。あるいは,犯罪現場に残った体液を無実の人間のものとしてしまうかもしれない。技術を生かすのも殺すのもそれを扱う人間である。

 

◆ゲノム情報の利用

ゲノムにはたくさんの遺伝子が並んでおり,タンパク質をコードする領域ばかりでなく,遺伝子の発現を調節する領域などの情報が書き込まれている。ゲノムプロジェクトにより遺伝子のおおよその数とゲノム上の位置はわかってきたが,機能が明らかにされていない遺伝子が多くある。しかし,塩基配列を知ることにより,機能を予測したり,機能の解明に向けた実験計画を組み立てたりすることができる。

ヒトの他に大腸菌,酵母,ラン藻,シロイヌナズナ,イネ,線虫,ショウジョウバエ,ホヤ,ウニのゲノムの配列が決定されている。驚いたことに,多細胞動物の遺伝子の数と遺伝子の種類は,どの動物もほとんど同じであることが明らかになってきた。たとえば,2006年の11月に発表されたウニの全ゲノム配列を見ると,遺伝子の数はヒトとほぼ同じであり,眼や脳をつくる遺伝子もヒトとほとんど同じものを持っていた。しかし,形態が全く異なることも事実である。遺伝子の発現調節領域の違いがヒトとウニの違いを生じさせているものと考えられている。さらに多くの種のゲノム解読が進められており,これらを比較することにより進化が解明されると期待されている。

既知のクローンに通し番号をつけ,各クローンをスライドガラス上に,高密度で固定したものをマイクロアレイという。フォトリソグラフィー(集積回路のプリント基板を焼き付ける技術)を用いて,1pの基盤上に100万種類のオリゴヌクレオチドを合成・配置したマイクロアレイを,特にDNAチップという。DNAチップを用いることにより,遺伝病になる可能性を迅速に検定できるようになった。ヒトのゲノム配列の個人差は約0.1%であり,そのほとんどは1塩基が異なる点変異である。これをスニップスSNPsSingle Nucleotide Polymorphisms:一塩基多型)といい,ゲノム上に300万個以上ある。スニップスは高密度で存在するので,個人の多型をとらえるための遺伝マーカーとして有用である。DNAチップと組み合わせると,少量のDNAスニップスを検出することができる。塩基の変異により引き起こされる遺伝子の異常発現や,タンパク質の機能異常ががん化を促進する。スニップスを検出することにより,これらの病気の予知(遺伝子診断が行われるようになってきた。

 

参考文献

●分子生物学の参考文献

ワトソンとクリックがDNAの分子構造を解明して以来,生命現象を分子のレベルで説明する「分子生物学」が誕生した。分子生物学は,生物学にとって革命的であり,今世紀の後半は「生命科学の時代」といわれるまでになった。この分子生物学の誕生前後の歴史は,科学史的に見ても大変興味深い。誕生後,現在に至るまで,その歴史を記した何冊かの興味深い本が出版されている。これらの本は,教育上でも有効な場合があり,課外の読書として生徒に推薦してもよいと思われる。それで,いくつかの本とその概略をあげておく。

 

J.D.ワトソン著 江上不二夫,中村桂子訳 講談社文庫

「二重らせん」タイム・ライフ・インターナショナル

この本は,DNAの二重らせんを発見するまでの過程を,発見者のワトソン自身が記したものである。赤裸々な記録という語がそのまま当てはまるように,そのときどきの事情が,正直に,感情を交えて記してある。実に面白い本で,科学者の生き様や,考え方を知る上でも,貴重な本といえる。

 

アン・セイヤー著 深町真理子訳 草思社

「ロザリンド・フランクリンとDNA-ぬすまれた栄光」

この本は,上の「二重らせん」が出版されたので,出された本である。ワトソンは上記の本の中で,DNAX線解析を行い,その構造決定に寄与した女性科学者ロザリンド・フランクリンを意地悪な人とけなしている。それに対して,彼女の友人の小説家アン・セイヤーが,真のDNA構造解析をしたのは彼女だとする本である。なお,フランクリンは,1958年に38才でがんで亡くなっている。

 

H.F.ジャドソン著 野田春彦訳 東京化学同人

「分子生物学の夜明け(上,下)−生命の秘密に挑んだ人たち」

1953年から1970年までの分子生物学の創始期の歴史を,著者が多くの科学者に会って,まとめたものであり,分子生物学誕生の歴史を記した集大成ともいえる本である。分子生物学に関して本格的に学ぼうとするならば,まず眼を通しておく必要がある本といえる。

 

E.P.フィッシャ,C.リブソン著 石館三技子,石館康平訳 朝日新聞社

「分子生物学の誕生−マックス・デルブリュックの生涯」

「ファージの生物学」の創始者,デルブリュックの伝記である。しかし,彼の伝記を通して,米国のファージ学派の成立の状況や,一人の科学者の考え方や生涯を知ることができる。

 

 








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