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はじめに

 

◆はじめに

 課題研究においては,問題を発見して課題として設定し,自分で答えを出していく。これは自分自身で,独自の世界を無からつくり出していく作業であり,生徒達に創造性をつけてもらうのが,課題研究のめざす主目的の1つである。

 ふだんの授業では主に与えられたものを学び,必ず正解があるが,課題研究では正解が決まっているわけではない。生徒はとまどうかもしれないが,とまどって途方に暮れ,そこを何とか切り抜けていく,生きる力をつけるのが課題研究の目的でもある。

 

◆創造性について

 創造的な仕事といえば,まず,新しい物を発明することがあげられるだろう。では,新しい星を発見したり新しい生物の種を記載することはどうだろうか。これは,すでに存在している物の発見であり,新たに物をつくったわけではない。しかし,人類の知の世界を広げ,それだけ新しい知の領土を創造したことになるのだから,これも創造的な仕事である。

 新しい理論を考え出すことはどうだろう。例えばコペルニクスの天動説。説が出る前も後も,星の動きに変化はない。しかし天動説により,地球が太陽のまわりを回るという新しい世界観が生み出されたのであり,これは新しい世界が創造されたといってよい。天動説ほど大きく世界観を変えるものではなくても,科学の新説は,皆新しい物の見方(世界観)をつくり出す。物の見方とは,物と物との関係がどうなっているかを見通す目といってもよい。

 技術は新しい物を生み出す。科学は新しい知の世界と新しい世界観を生み出す。どちらも創造的な仕事なのである。ただし,物をつくり出すこと(技術)と,科学のようにすでに存在する世界の中から未発見の物をみつけだすことや物と物との関係をみつけだすこととは,やり方に違いがある。物をつくる方は直接的である。現物を示せばよい。科学の方はより間接的になる。新しく発見した物でも,ほら! と見せただけでは科学にならない。生物の新種の記載がまさにそうだが,名前をつけ,言葉を使ってそれがどのようなものであるかを記載する。言葉を使って論文にしなければならないのである。言葉には数式も入る(数式とは,もっともあいまいさのない世界共通語である)。科学とは自然を言葉で定義していくもの,そうしながら人間が理知的に理解可能な世界を創造していくものということができる。

 科学において,言葉はきわめて重要である。だからこそ課題研究ではレポートを作成させ,言葉にして結果を発表する訓練を行う。 課題研究では,身のまわりの自然を探究する(例えばグラウンドの植物群落調査:教科書p.283)ものがある。ここで得られた結果は,その場所,その時点の調査結果として世界唯一のものであり,創造的な仕事とよべる。科学は普遍的な共通性を見出すことに大きな価値をおくが,それだけでは生物の本質を見失う。生命の本質はDNA であり酵素であり細胞でありと,生命に共通のものを本質とみなしがちであり,それは間違ってはいない。ただし生物の大きな特徴は多様性,つまり共通ではないことである。多様性は,生物がそれぞれの環境に適応して進化することから生まれる。環境への適応は,その土地その土地で,生物のありようを見つめる必要があり,そのため,たとえ他の場所ですでに調査されたものであれ,自分のこの土地で,この時にどうなっているかを調査する課題研究は,新しい創造的な意味をもつ。専門家が昔どこかでやったことの単なるまねごとではないと,生徒達を鼓舞してもらいたい。

 では,呼吸量の測定のような,いつでもどこでも普遍的になりたつ課題研究には,創造的な価値はないのだろうか。

 自分の知の世界をつくりあげていくことも創造的な作業である。学ぶことは,自分自身の世界をつくっていくのであり,これは創造的な作業である。とくに,あれやこれや考えながら進めていく課題研究は,たとえ誰かがやったのと同じ結果になっても,自身の中では新たな創造があり,それが如実に体感できる。その体験をもとに,普段の授業においても,学びということが創造的な作業だと生徒たちに気づいて欲しいと願っている。

 

◆動物の取り扱い

 課題研究では生きた動物を取り扱う場合がある。動物に不要な苦しみを与えないよう,充分注意しなければならない。世の中には,動物を使っての実験に強く反対する人たちもあり,それがどのような考えにもとづくかも,わきまえておく必要がある。

 キリスト教では,人間は他の生物より一段高い地位にあり,動物を含め自然界のものは,人間が使うために神様が用意してくれたもので,人間が自由に使ってよいとする伝統があった。また,西洋には肉食の文化が根づいている。そのような伝統に異を唱えたのが,1970年代以降に登場してきた「動物の福祉」や「動物の権利」の考え方である。注)これには大別して3 つの立場があり,動物の福祉・権利をどこまで認めるかが異なる。

@道徳的地位 人間が使うためにのみ動物に存在意義があるというのは,動物に失礼ではないか。動物は,それ自身として存在する意義がある。つまり「道徳的地位」をもっており,しかるべき理由がなければ,むやみに殺したり檻に入れて飼ったりすべきではないし,苦しみを与えないよう配慮すべきである。

 これは動物の福祉を考える立場であり,動物と人間が対等だと主張するわけではない。

A平等な配慮 より強く動物の側に立つ人たちは,動物の権利を主張する。ただし,権利とは法律上の権利ではなく,道徳的権利である。動物の苦しみに対して,人間と同じ配慮をしなければならず,動物は「平等な配慮」をされる権利をもつと主張する。

 この立場では,平等な配慮をすれば,動物を人間のために使うことを否定しない。ある動物個体にとって少々の不利益があっても,人類社会のために大きな益となるなら利益を優先させる,功利主義の立場をとるのである。しかるべく配慮した実験なら,教育目的に動物を用いることは許されると考える。

B強い動物の権利 もっとも強く動物の権利を主張する人たちは,功利性よりも,動物の権利を優先させる。この立場に立つと,人類の教育のために動物を使うこと(本課題研究の例)や,人類の病気の治療薬を開発するために動物実験すること,人類を養うために家畜を飼うことは許されないことになる。

動物は皆同じに扱うのか ここで問題になる動物とは,感覚性をもつ動物に限られる。感覚性とは,単純に刺激に反応するというだけではなく,苦痛のような意識される感覚や,恐怖・不安・苦悩のような情動的状態をもつ能力とされている(「苦しみ」を感じる能力と表現されることがある。)。苦しみを感じる動物は,系統樹のどのあたりからなのかはわからないところだが,通常,脊つい動物が感覚性をもつとされる。つまり,動物の福祉・権利を考えるときには,脊つい動物と無脊つい動物との間に区別をもち込むことになる。さて,脊つい動物を皆同じように扱うかどうかは立場により異なる。動物はすべて人間と同様な,平等な配慮を受けるべきだとする強い立場が一方にあり,他方,動物の種類により苦しみの感じ方も違うのだから,配慮の程度も違ってよいとするスライディング・スケール・モデルを採用する,より控えめな立場がある。イルカや大形類人猿は人間と同じ配慮が必要だが,ネズミにはより少ない配慮で済み,魚はあまり配慮しなくてよい,というふうに,配慮のものさし(スケール)を変えるのである。

教室での配慮 生物の教師として,私は教育上,動物実験は不可欠だと信じている。もちろん動物に苦しみを与えないよう,以下のような配慮は必要である。ネズミのようなほ乳類を飼うときには,充分の広さのある容器で飼い,餌やりや掃除を忘れず,動物に不必要な苦しみを与えない。動物の身体を不必要に損傷しない。実験の必要上手術する際には麻酔する。不必要に動物を殺さない。遺体は丁重に扱う。そして動物を殺す際には,殺生しなければ生きていけないわれら人間の業を重く心に受け止め,また死んでいく動物への哀れみの情を深く表すために,手を合わせるなり,黙祷するなり,南無阿弥陀仏を唱えるなり,各人のやり方で生命への畏敬の念を表すよう,指導すべきだと私は考えている。注)仏教では,人間は生まれ変われば畜生にもなり,人間と動物との間に,キリスト教のような断絶は存在しない。また牛や豚を食べることも明治以降に広まった習慣であり,動物の権利に関する西洋での過激な論争が,日本人にはピンと来にくいかもしれない。しかし捕鯨の問題に端的に現れるように,これは避けて通れない問題である。

 

 

 

 








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