第1節 遺伝子の本体
A 遺伝子の本体DNA
◆物理学者と生物学者
細菌に感染するファージは分子生物学で多用されている。教科書にあげられてい
るハーシーらの研究もその代表例の一つである。その理由は30kb*程度の比較的長い
DNA(プラスミドの場合はだいたい5kb程度)を組み込むことができ,また,容易に
しかも特別な大腸菌のみに感染するために安価に安全に実験を行うことができるた
めである。
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* kbはキロベース(kilo bases)と読む。塩基1個を1bと表記する。500個の塩基が並んだ核酸鎖(DNA鎖でもRNA鎖)は500bあるいは1k=1000なので0.5kb,1000kbは1M(mega)=1000kなので1Mbとなる。PCRの時に使用するプライマーは20塩基や50塩基であるが,20bとか50bとはせずに,慣例で,重合のポリマーpolymerに由来した20mer,50merというように表記する。なおDNA鎖は通常二本鎖であるが,一本鎖が2kbであれば,二本鎖であってもそのまま長さとしては2kbとし,2倍にすることはない。とくに二本鎖を強調するときにはpairのpを付加して,2kbpというようにbp,base pairsと表記する。 |
このファージに注目したのは,ドイツ生まれの物理学者デルブリュックである。彼
はもともと化学結合の量子理論や原子核理論を専攻していた。その後,遺伝子に興味
を持ち,放射線生物学の実験にもとづいた遺伝子のモデルを提案した。31歳のとき渡
米して,カリフォルニア工科大学でファージの研究を始め,その増殖実験を手がけた。
また,イタリア生まれで米国で研究していたルリアと共に,1940年代からファージの
実験的な研究を始めた。ハーシーも彼らのグループで研究した一人である。1969年に
デルブリュック,ルリア,ハーシーの3人はノーベル医学生理学賞を受賞している。
どうして物理学者デルブリュックがファージに注目したのだろうか。彼は,ファー
ジが増殖する系を最も簡単な増殖モデルとしてとらえ,その解析に当たった。一般に,
物理学者はより単純な系を出発点として,できるだけ普遍的に拡張できる理論の構築
を目指す。例えば,実在しない理想気体を仮定して理論を構築する。そして,実際の
気体に適用するには補正を加えていくやり方などがその典型であろう。この物理学者
魂からすれば,複雑な構造を持つ多細胞生物よりも単純なファージを選んだのは当然
とも言えよう。
では,生物学者はどうであろうか。基本的な生命現象を解明しようとするとき,で
きるだけ単純な系(大腸菌,あるいは精製した酵素)を用いようとすることも多い。し
かし,一方において,生物界は「そんな簡単なものではない」として,知識を動員し
て複離な例外系を誇示する傾向もないとはいえない。その結果,思うように研究が進
まず,「そんな簡単には割り切れはしない。生命現象は実に複雑だ」とすることもある。
現在,生物の多様性が注目され,それを保つことが人類も含めた地球上の生物にと
って必要であると考えられている。複雑な「人の精神」の生物への探究が成果を上げ
ている中で,大腸菌にもまだまだ解らないことは多い。大腸菌のゲノムの塩基配列や
その遺伝子群も完全に解明されているのに,未だ「無生物」から「生きた」大腸菌を
作り出すことはできない。単純系・複雑系,物理学・生物学を問わず,さまざまな分
野や考えかたを今後とも組み合わせて行くことが必要である。
実験6 DNAとRNAの染色による検出
B DNAの化学的構造
◆DNAの構造
DNAには大腸菌のプラスミド(塩基数として2K(K=103)個ぐらい),ヒトの最も短い
21番染色体は約50 M (M=106)個,最大の1番染色体では250 M個と様々なものがある。
人工合成は20塩基ぐらいのものは1万円以下の価格で1日あれば入手することができ
る。50塩基ぐらいまでは楽に合成することができる。両端を連結できるように設計す
れば,酵素でつなぐことができるので,どんな長さのDNAも計算上は人工合成するこ
とができる。
DNAの構造のポイントは相補的塩基配列を持った二本鎖であることである。この結
合は強固ではあるが,溶液を沸騰させるとほどける。しかし,冷ますと相補的な二重
鎖が再び形成される。もっとも数%の違いがあっても二本鎖を形成することができる。
しかし,それが一本鎖にほどける温度は完全に相補的な場合よりも低くなる。これを
利用して,手持ちの塩基配列が既知のDNA鎖と未知の配列のDNA鎖と二本鎖を作ら
せて,それが解離する温度から非相補的な塩基がどのくらい含まれているかを推測す
ることができる。
RNA鎖が2本,あるいはDNAとRNA1本ずつでも二本鎖を形成することができる。
伝令RNAは情報伝達手段であるため,細胞内にいつまでも伝令RNAが残っていると
次の情報を伝えることができなくなる。あるいは,必要以上にタンパク質が作られてしま
う。そのためRNA分解酵素が生物界で著しく発達している。DNA分解酵素はマグネ
シウムイオンを除去したり,軽く熱するだけで不活性化する。しかし,RNA分解酵素
はぐらぐら煮ても失活しない。完全に除去するには焼かなければならない。そのため
実験でRNAを取り扱う場合には手袋をして(皮膚はRNA分解酵素だらけ),つばが飛
ばないようにマスクをしてきれいな部屋で慎重に実験を行う必要がある。この強力な
RNA分解酵素の多くは二本鎖RNAを分解することはない。
C DNAの複製
◆DNAの複製
DNAの複製は二本鎖DNAが部分的にほどけて,それぞれのDNA鎖の塩基と相補
的な塩基が連結することによって,結果的には元のDNAと同じ塩基配列をもった
DNAが作られる。
DNAの複製が行われるのは,ふつう細胞の核分裂に先立つ時期である。細胞の一生
を細胞周期といい,細胞周期は,G1期(DNA合成準備期),S期(DNA合成期),M期(分
裂期),G2期(分裂準備期)に分けられる(下図)。それらの中で,DNAの複製が行われる
のは,S期である。各期の長さは,細胞の種類や状態により違いがある。生物IIでは,
核酸は,細胞の構造と関連して取り扱われていない。しかし,核酸の機能を細胞の構
造と結びつけて理解することは,重要と思われる。

DNAの存在部位は,細胞の核内の染色体であることは,よく知られている。ヒトの
細胞の場合,1個の細胞内に約1.7m,30億の塩基対をもつDNAがある。DNAは幅
20Å(50万分の1mm)であり,核は直径10〜20μm(50〜100分の1mm)であるから,そ
んな小さい核に1.7mものごく細いDNAの糸が巻き込まれているのは,驚くべきこと
である。教科書の図などに,DNAの分子構造が拡大して示されているが,実際の大き
さを考えてみると,全体を構成する分子がいかに精巧にできているかがわかるであろ
う。
DNAの遺伝情報は生命活動の基本情報であるために,ヒストンなどのタンパク質に
よってがっちり守られている。つまり,地下金庫に納められているようなものである。
しかし,情報はため込んでいるだけでは,まさに,「宝の持ち腐れ」である。タンパク
質合成のためには必要な情報を迅速に取り出す必要がある。コンピュータなら地下金
庫室に守られたマスター・コンピュータの必要な情報を窓口の端末から素早く見るこ
とができる。しかし,細胞核のDNAではタンパク質でがっちりまもられている。に
もかかわらず,適切な領域でmRNAに迅速に遺伝情報が転写される。
◆PCR法 (第4部の参考「分子生物学の興隆を支える技術」の項参照)
DNAを効率よく多量に複製する方法がある。DNA合成を開始するためにプライマ
ー(目的のDNAの塩基配列と相補的な20塩基ぐらいのDNA)をDNAに加えて加熱す
ると,DNA鎖がほどける。そして冷やすとDNA鎖にプライマーが結合する。そこで
DNA合成酵素が作用すると,新しいDNA鎖が作られる。再び熱して冷やすと,さき
ほど合成された新しいDNA鎖をも鋳型としてDNA鎖が合成される。こうして倍々に
DNA鎖を合成することができる。10回で210,約1000倍,20回で約100万倍に2時間
程度で,(50万円程度の器械で,1回の反応は100円程度の試薬で)増やすことができる。
微量のDNAを特異的に感度良く検出することができるし,増やしたDNAで遺伝子操
作を行うことができる。細胞1個の遺伝子の解析もできる。この技術をポリメラーゼ・
チェイン・リアクチョンPCR法という。この方法では,温度を100℃まであげる必要
があるが,それでも変性しないDNA合成酵素が必要である。それは,温泉や海底火
山にひっそりと生息していた耐熱菌から生成された。バイオテクノロジーもおよそ趣
味的なさまざまな生物を観察する生物学に支えられているのである。
この方法を開発したマリスは巨万の特許料を得たが,ドライブの最中に突然このア
イデアがひらめいたとのことである。

PCR法
D RNAの構造と働き
◆RNAの種類と構造
RNAには,教科書p.75に記してあるように,伝令RNA,リボソ一ムRNA,転移
RNA以外に,タバコモザイクウイルスなど植物ウイルスに含まれているウイルスRNA
がある。ウイルスRNAは,分子量105〜107の巨大分子で,ふつう1本鎖であり,細胞
内のDNAと同様に,ウイルスの形質を決める遺伝情報を担っている。伝令RNAも1
本鎖であり,その大きさは様々である。リボソームRNAは,リボソームの約50%を
占め,大きさや構造の違ういくつかの種類がある。
RNAの中で特徴ある構造をしているのは,転移RNAである。下図のようなクロー
バー葉型をして,アミノ酸を結合する部位,伝令RNAのコドンを認識するアンチコド
ン,リボソームと結合する領域などがある。コドンとアンチコドンは塩基の相補性に
より正確に相手を認識する。また,転位RNAにアミノ酸を結合するアミノアシル転
位RNA合成酵素は,アンチコドンを含めて転位RNA全体の構造を認識して正確にア
ミノ酸を結合する。さらに,誤ったアミノ酸が結合された転位RNAを分解する機構
も備わっている。

RNAの構造単位の1つは,ATPのリン酸が2つとれたAMPである。ATPといえば
細胞のエネルギー源としての機能が有名だが,このように遺伝子の構成単位でもある。
また,細胞に情報を伝える神経伝達物質としても働いている。生物は1つの化学物質
を多面的に利用して効率よく生体活動を行っている。

