第3節 好気呼吸
◆好気呼吸
酵母は,無酸素下でも生存可能である。これは,解糖によるATP生成で生命を
維持していくことができるからである。しかし,増殖はできない。これは多くの
ATPを必要とするためで,そのためには呼吸をしなければならない。この過程は,
複雑である。結果としては光合成の逆反応で,糖が二酸化炭素と水に分解され,そ
の間に多量のATPがつくられる。多量のATPをつくることが好気呼吸の意義であ
る。
ウィーラントとワールブルクの論争 細胞呼吸のしくみをめぐって,1910年代か
ら30年代にかけて大論争が起こった。
ドイツの生化学者ウィーラント(Heinrich Wieland1877〜1957)は,脱水素酵素の作用
で基質から水素が奪われることが呼吸の重要過程であると述べた(1912年)。
これに対して,同じドイツの生化学者ワールブルクは,鉄を含む酸化酵素が,酸
素を用いて基質を酸化することが大切だと主張した(1921年)。
両者が激しく論争している間に,イギリスの生物学者ケイリン(David Keilin1887〜
1963年)がシトクロムとよぶ一群の呼吸色素を発見した(1926年)。基質から奪われ
た水素はシトクロム系を経て酸化酵素に渡され,水になるという考えで,いわばウ
ィーラントとワールブルクの橋渡しをしたわけである。しかし,決着がつかず,日
本の柴田桂太・田宮博(東大)らも論争に加わり,1930年代の終わりまで続いた。
◆ミトコンドリア
ミトコンドリアの働きは,ATPを生成することである。若い細胞や活動性の細胞
には多くのミトコンドリアが見られるように,ミトコンドリアの数は細胞の物質代謝
の活性と関連している。たとえば,腰筋に含まれるミトコンドリアの数は,心筋
に比べて1/500しかない。
A 好気呼吸のしくみ
◆クエン酸回路
細胞呼吸で,グルコースなどの呼吸基質が完全に酸化分解されて,二酸化炭素と
水とに分解される過程は,大別すると解糖系(嫌気呼吸),クエン酸回路と電子伝達
系(好気呼吸)の3つの経路に分けることができる。
クエン酸回路は,解糖系に続く好気呼吸の主要な反応経路で,細胞のミトコンド
リアでなされる。1937年,イギリスのクレブス(Krebs)によって明確にされた化学反
応の循環経路で,クレブス回路,またはTCAサイクル(tricarboxylic acid cycle)ともよ
ばれる。

1.反応過程 グルコース1分子から解糖系で生じたピルビン酸2分子は,活性酢
酸(補酵素AのSH基とアセチル基がチオエステル結合したもので,CoA-S-COCH3で
示される)を経て,オキサロ酢酸と反応してクエン酸となる。このクエン酸が図のよ
うな循環過程を経て,またもとのオキサロ酢酸となる。この間に,デヒドロゲナー
ゼによる脱水素の反応や,カルボキシラーゼによる脱炭酸の反応が行われる。この
経路中で,2分子のピルビン酸は,6分子のH2Oを使って,6分子のCO2と20個の
[H]となり,この間(ケトグルタル酸からコハク酸になる過程)に2分子のATPが
生成される。この20[H]は,解糖系で生じた4[H]とともに,補酵素と結合した
形(NADH,NADPH,FADH2)で次に述べる電子伝達系にはいり,やがて酸素と化合
して12分子のH2Oとなる。このクエン酸回路は,生体内の代謝を円滑に行うため
の便利なしくみであって,回路中の物質は一時的に変化しても,再びもとの物質に
もどるが,代謝物質は連続的に変化していく。授業ではこのことを中心にして,個々
の物質の名称にこだわらず,炭素数の変化に注目させて指導するとよい。
2.クエン酸回路発見のいきさつ 1937年に発表された3つの研究でその原型が
確立した。
(1) セント=ジェルジのC4-ジカルボン酸触媒説
ハンガリーの生化学者セント=ジェルジ(Albert Szent-Györgyi 1893〜1986)は,ハトの
胸筋の呼吸が,わずかの量の炭素4個をもつ酸(コハク酸など)を加えることで高い
速度が維持されることを見いだした。彼は,これらC4-ジカルボン酸が呼吸系で水
素をうけ渡す触媒作用を営むものと考え,次の順序を考えた。
グルコース→ピルビン酸→コハク酸→フマル酸→リンゴ酸→オキサロ酢酸→O2
(2) マルチウス,クヌープのクエン酸代謝経路
ドイツの生化学者マルチウス(Carl Martius1906-1995)とクヌープ(Franz Knoop
1875〜1946)は,クエン酸の代謝系を明らかにした(1937年)。
クエン酸→シスアコニット酸→イソクエン酸→オキサロコハク酸
また,オキサロコハク酸→α-ケトグルタル酸→コハク酸という経路は,すでにわか
っていた。そこで,クエン酸からコハク酸までの道筋が明らかになった。
(3)クレブス回路
イギリスの生化学者クレブス(Hans Krebs 1900-1981)は,(1)(2)の経路をみて,もし,
セント=ジェルジ経路の終わりのオキサロ酢酸とピルビン酸とからクエン酸がで
きれば,呼吸系は回路をなすと考えた。そこで,クエン酸の触媒作用を示した後,
ピルビン酸とオキサロ酢酸とからクエン酸が生成されることを実証し,回路は完成
された。

◆電子伝達系
フラビン・シトクロム系ともいう。ミトコンドリアでのクエン酸回路を1まわり
すると,ピルビン酸から始まって,結局,二酸化炭素と水に分解されてしまう。
CH3COOH+2(1/2O2)→3CO2+2H2O
何のために複雑な経路を通って反応が行われるかというと,それは,水素原子が
ミトコンドリアのクリステにある電子伝達系に渡されるのを可能とするためであ
る。
解糖系およびクエン酸回路で脱水素酵素によって離脱された水素(NADH+H+
の形)は,電子伝達系を通っている間にエネルギーが捕捉される。これは,川の水が
ダムを通らずに海へ放流されれば,そのエネルギーは捕捉されないで流されてしま
うが,もしダムがあって水力発電がなされれば,このエネルギーは有効に使われる
のと同じである。細胞の中にあるダムは,補酵素T(NAD)・補酵素II(NADP)・フラ
ビン酵素(フラビンアデニンジヌクレオチド,略してFAD)・シトクロム(a,b,c)・
シトクロム酸化酵素などの酸化還元酵素群がそれに相当し,水力のかわりに,ATP
が利用できるエネルギーとして生成される。転送されるH原子は,実際には,プロ
トン(H+)と電子(e−)とに分かれ,その電子だけが送られていく。その際,ATPは次の
図のように3段階に分けて生成される。H+は受動的に運ばれる。
この電子伝達系でATPが生成されるしくみは,化学浸透説(「化学浸透説」の項参照)
で説明されている。2[H]につき3ATP(途中のFAD・H2からだと2ATP)がつくられる。

*ATPがこの箇所で生じることを示すものではない。この箇所でのエネルギー差が
ATPを生じるのに十分であることを示す。次図についても同様である。
◆ATPの生成
グルコースの酸化分解の過程を簡単にまとめると,次のように示される。
解糖系 C6H12O6 →2C3H4O3+4[H]+2ATP……(1)
クエン酸回路 2C3H 4O3+6H2O →6CO2 +20[H]+2ATP……(2)
電子伝達系 24[H]+6O2 → 12H2O+34ATP・…‥(3)
(1)+(2)+(3) C6H12O6+6O2+6H2O→6CO2+12H2O+38ATP(+熱エネルギー)
グルコース1分子から解糖系およびクエン酸回路で生じた24[H]は,最後に酸
素と化合して水となり,このとき34分子のATPを生じる。

なお,クエン酸回路で,脱水素と関係なしに2分子のATPを生じるので,クエン
酸回路と電子伝達系で計36分子のATPを生じることになる。
解糖系で,別に2分子のATPが生じているので,結局好気呼吸によって生じる
ATPは,グルコース1分子につき38分子に達する。
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グルコース1分子あたりのATP生成数 |
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解糖系 |
2ATP |
2 |
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1NADH (×2) |
6 |
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ピルビン酸→アセチルC0A |
1NADH (×2) |
6 |
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クエン酸回路 (1GTP+1FADH+3NADH)×2 |
24 |
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合計38 |
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グルコース1モル(180g)を完全に燃焼させ,発生する熱量を測定すると,約2822kJ
になる。この値を熱力学的に計算すると約2881kJになる。ATP lモルのもつエネル
ギーは約33kJである。好気呼吸全体で,グルコース1モルから38モルのATPが生
成するので,グルコース1モルのもつ化学エネルギーの2881kJのうち,33kJ×38
=1254kJがATPに移行し,残りは熱エネルギーとして失われる。したがって,有
効なエネルギーとして捕捉されるのは,約1254×100/2881=43.5〔%〕の効率となる。
ガソリンを燃焼させて自動車を走らせる場合,使われるエネルギーの効率は約30%
であることと比べると,生体内のエネルギー効率は非常に高いことがわかる。
◆化学浸透説
ATPがリン酸とADPとから,ミトコンドリアの電子伝達系でどのようにしてつ
くられるかは大きな問題であったが,1961年イギリスのピーター・ミッチェル(Peter
Mitchell,1920-1993)は,化学浸透説を提案した。ミトコンドリアのクリステに並ん
でいる電子伝達系の働きによって,プロトン(H+)がマトリックスから内膜をへて外
膜との間のスペースに放出される。そのH+がクリステからマトリックスに流入す
るさいにATPがつくられるという説である。エネルギーは,水素イオンの濃度差で
ある。

化学浸透説の原理 電子伝達系はH+ポンプであると提案されている。すなわち,電
子伝達によって遊離されるエネルギーは,H+をマトリックスから外側に移動するの
に使われ,外側が高濃度となるようなH+の濃度勾配が生じる。次に外側のH+はF1
ATPアーゼを介して濃度勾配の下がったマトリックスへ流れ戻り,H+が低濃度域に
入ってくる際に遊離する自由エネルギーを消費してATPを生成する。

化学浸透説の原理
◆ATP合成酵素のしくみ
1997年度ノーベル化学賞がアメリカのポール・ボイヤー,イギリスのジョン・ウ
ォーカー,デンマークのクリスチャン・スコウに贈られた。ボイヤーとウォーカー
はミトコンドリア・クリステのATP合成酵素,スコウはNa+,K+-ATPアーゼにつ
いて研究した。
ATP合成酵素(F1)は主としてα,β,γサブユニットからなり,α3個β3個から
できている頭部をγ1個が柄として支えている。γサブユニットはクリステ膜に埋
め込まれたリング(F0)の中央に結合している。ボイヤーはADPと無機リン酸がβサ
ブユニットに結合し,F0リングが水素イオンの流れによって回転するにつれて,γ
サブユニットの柄も廻ってβサブユニットに構造変化が生じ,その際ATPが合成す
ると考えた。ウォーカーは各サブユニットの立体構造を明らかにして,ボイヤー説
を裏づけた。東京工大(吉田賢右)と慶応大学(木下一彦)のグループは蛍光色素をつけ
たアクチンフィラメントをγサブユニットにつけて,それがATP合成中に左廻りに
回転することを実証した(1997)。
こうして水素イオン濃度差のエネルギーが回転の機械エネルギーに変換され,そ
れがタンパク質の構造を変化させてATPの高エネルギーリン酸結合の化学エネル
ギーに変えられることが示された。

実験3 脱水素酵素の反応
B 嫌気呼吸と好気呼吸の比較
C 呼吸基質と呼吸商
◆呼吸商(RQ)
呼吸によって排出されるCO2と,とりこまれるO2の比,すなわちCO2/O2を呼吸商
(Respiratory Quotient)という。グルコースが呼吸基質の場合は,6モルのO2を吸収し
て6モルのCO2を排出するので,RQ=1である。単糖以外が呼吸基質になると,そ
れらの物質が呼吸の経路に入るまでに,予備的な変化があるので,RQの値は変化
する。例えば,トウゴマの種子(脂肪種子)の発芽の場合,呼吸と無関係な酸素の吸
収が先行するのでRQ<1となる。ヒマシ油が酸化された場合の反応式は,
2C57Hl04O9+157O2=114CO2+104H2O RQ=0.73
であるが,脂肪が糖に変化するときにはO2が吸収されてもCO2が出ないので,RQ
は0である。トウゴマのような脂肪種子は,発芽のはじめはRQ=0.9ぐらいからス
タートして,5日ぐらいで最低のRQ=0.73となる。
また,グルコースが有機酸になるだけで,CO2を出さなければRQ<1になるが,
この酸がさらに呼吸基質になればRQ>1となる。
葉は一般に夜は有機酸を蓄積し,光が当たるとこれを消費するが,この傾向は多
肉植物で著しい。例えば,サボテン・セイロンベンケイなどは夜にリンゴ酸を作り,
マツバギク・タバコなどはシュウ酸を作る。糖からシュウ酸ができる反応は,
2C6H12O6+9O2=6C2H2O4+6H2O RQ=0
となるが,これがさらに呼吸基質になれば,次のような反応式で,RQ=4となる。
2C2H2O4+O2=4CO2+2H2O RQ=4
資料学習 呼吸商(RQ)を測定する
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呼吸の研究史 |
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呼吸は空気中の有効成分を取りこむためにするという説は,17世紀の後半にイギリスのボイルやフックによって証明された(1660〜1682年)。彼らは,密閉した容器内に小動物を閉じこめて,次のような実験結果を得た。@空気を消費しつくすと動物は死ぬ。A圧縮した空気はふつうの空気より動物を長時間生存させる。B物の燃焼と生物の生存とは平行的な現象である。フランスのラボアジェは,Bを化学的にはっきりさせ,燃焼も呼吸も,空気中の酸素を消費し固体空気(二酸化炭素)を生成すると述べた。 血液がガス交換を行っていることは,1837年にドイツのマグヌスが示し,その後,ホッペ=ザイラーが酸素は赤血球中のヘモグロビンと結合することを実証した。ドイツの生理学者プリューガーは組織が呼吸を行うことを示した(1872〜1879年)。1879年には,フランスのベルナールが,「動植物に共通する生命現象」として酸素が組織にとり入れられて二酸化炭素になる過程があり,呼吸と発酵は本質的には同一であると述べた。 細胞呼吸のしくみは,生化学の発展によって解明されるようになった。1912年に,ドイツのラィーラントが,生体呼吸は呼吸基質から水素が奪われることが重要であるとする水素活性説を述べた。スウェーデンのツンベルクがざまざまな脱水素酵素を発見してウィーラント説を支持した(1920年)。ドイツのワールブルクはこれに反論し,細胞内にある鉄が酸素によって活性化され細胞呼吸がなされるという酸素活性説を唱えた(1921年)。1926年,イギリスのケイリンがシトクロムa,b,cを発見して,ワールブルクの呼吸酵素はシトクロムc酸化酵素であることがのちにわかった。水素活性説のほうは,1937年にハンガリ一のセント= | |